かくれた次元/エドワード・ホール

  • 2024.05.24
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1966年に書かれた本。つまり近代から現代、という時代に現れてきた問題に対する書、だけど今でも本質は何も変わってはいない。
「かくれた」とは何か?について。結びの部分より

「民族の危機、都市の危機、そして教育の危機は、全てお互いに関連しあっている。包括的に見るならば、この三つはさらに大きな危機の異なる局面と見ることができる。その大きな危機とは、人間が『文化の次元』という新しい次元を発達させたことの自然的な産物である。文化の次元はその大部分が隠れていて眼に見えない。問題は、人間がいつまで彼自身の次元に意識的に目をつぶっていられるかである。」

著者は人類学者だそうで、「人間も他の動物界のメンバーと同じように、最初も最後も、そしていつも、自分が一個の生物であるという事実の囚人である」というスタンスで、前半はネズミの実験から得られたようなことと、人間の習性とを比較したりする。その中で面白かったのは人間は他の動物に比べ嗅覚が弱くなった結果、密集しても生きていられるようになったということ。ネズミなどは密集させられすぎると争いや生殖能力の低下などが進むけれど、どうやらそれは嗅覚の強さがあるかららしい。魚などが増えすぎると集団死するのは、その種全体のバランスを考えた本能だと思うけれど、人間は嗅覚が弱いからこんな過密に生きてられるのかもしれない。でもネズミでもそうだけど結局、ストレスのレベルが上がる結果のようだし、大都市に生活していたらストレス溜まるだろうし、寿命や自殺率や、いろんなところで実際影響は出ているのだと思う。

上記の通り、文化的なものが「かくれた」とすると、動物的本能に由来するものは「あらわれた」次元となるのだろうけど、たまに書くように、西欧的発想は人間が「一個の生物」であることを否定するところから始まっていて、その思考回路が世界を覆ってしまっている現在からすると、同様に「かくれた」次元となってしまっているのではないかとも思う。
言い方を変えると、自分たちが「何に突き動かされれいるのか?」が見えないことが「かくれた」ということだと思うけど、「食べたい」などの本来的欲求はわかりやすいとしても、本書にあるドイツ人、フランス人、アラブ人、日本人などが、示す、根本的に違った行動様式は「文化」によるとしか言えず、ドイツ人は自分のオフィスのドアを堅牢なものでしっかり閉めたがるのに対し、アメリカ人は逆であり、一緒に働くとお互いに疑心暗鬼になるようだ(今はどうだろ?)。
それについては日本人同士としか働かなければ問題ないじゃん、ということになるけど、僕たちだって、理由を問われても困るけど、慣習的に、因習的に、何か判断を下して生活していることが山のようにあるけど、それを普段は疑問に思わない。それが上記の「目をつぶって」の状況なのだと思うけど、それを続けている限り、社会が大きく複雑になればなるほど、問題が大きくなり、そしてそれから目を背け続けてしまっている。

日本人の「疑問に思わない」というのもそんな因習の一つだと思うし、政治が腐ってきても時間が経てば忘れるから腐り続けている、という事一つ取り上げても、著者の言う通り、僕たちは「目を開か」なければいけない。

明後日は静岡県知事選挙だ。
細かな政策などは庶民には分かるはずがないが、その候補者が真摯に首長として「こちら」を向いて頑張ってくれる方なら細かなことは任せれば良いし、そうでない、ただ自分や自分の周りが可愛い人なら、絶対に選んではいけない、と言うことだと思う。