関係性、国境
デザイン、という言葉もちろん自分でも使ってきながら、どうもたまに語義として使い方が良いのだろうかなんて思う事が多く、裏返せば今の世の中が使うデザインという言葉が何となくフワフワして感じられるというか。。
この中でも「関係」という言葉がたびたび出て来てますが、それは当然な事で、人間というのは常に何かを選択し、空間的、時間的に配列しなければならない存在な訳で、常に関係性をつくらざるを得ない動物なわけで、その中でより良い関係性をつくるのがより良い生の為になるからこそ、デザイン、という行為が必要とされているんですよね。
前書きの中で「現代社会の閉塞感、生きづらさは、関係の貧しさから生まれているという仮説から出発し」とありますが、決して仮設では無いでししょうし、よく考えるべき事だと思います。
広くはまちづくり(この言葉が使われていないのは何故だろう)的な事も、今時のテーマとして随分出て来ていますが、どうも表層的な関係性を取繕っているような話が多い中、西沢立衛さんはさすがだなあと。「人々はデザインを通じて未知の関係性の広がりを期待するのです、ですから、未来を示すというのは、これからのデザインにとって重要な役割です」と。
もう一冊。やっぱり人口問題は今後何よりも大きな影響を持つだろうなと思いつつ。
色々な学説はあるにせよ、読む中で、人口の増加自身が問題ではなく、人間というのは必要であれば新たな方法を発明する、というような話に少し納得しつつ、ただ問題なのは国境です。
僕はある集団(村、国など)は集団として一つの人格を持つから、きっと何かの危機は何とかしのげると思っているのですが、地球、というのは決して集団ではなく、宇宙船地球号なんて言ったって,最後は他国をそこから押しのけて自分だけは生き残ろうという争いになるのが結末じゃないかと思うので、今は先進国の論理で様々なシナリオが描かれていますが、最後は力づくでしかないんじゃないかと。。悲観論。
じゃあどうしたら?と聞かれたら、やっぱり既存の価値観では解決できないから、西沢さんの言う意味での未知の関係性を示すような国家関係が示されれば、なんてよっぽど難しい事を答えにしてみます。
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デザインという言葉をもう少し広義に捉えてみています。
人間は、自分の時間の使い方や、例えば料理一つ取っても,時間、空間の選択と配列ですから、デザインとも言えるし、だからどんな行動も美しく洗練させる事ができるというのは日本文化的なのかなとも思いますし、とても大切な事に感じています。
ただその中で特に建築というのは多くを選択し、配列することを要求される仕事だからこそ、スタッフ希望の学生などには、簡単にできる仕事じゃないから諦めなさい(笑)なんて言ってしまいます。
>それを論理的に批判できるのか?
批判は全くできないと、私見です。周囲にそれで迷惑でもかけない限りは、それも一つの人間らしい「選択」じゃ無いかと思います。
でもせっかく人間に生まれたからには、一つでも多くの足跡を至る所に残す方が楽しいよう思いますし、建築なんてやっている人間はそうなんでしょうね。
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世界の未来について様々に語られる中で、どうも気になるのは、今までもずっと基本的には搾取するーされる、という関係があってこその世界だったように思うのですが、今後その地図が大きく変わる中でも、多分誰かが搾取されなければ今の経済モデルは続いていかないように思うのですが、そこにはアンタッチャブルなんでしょうけれど、それで本質が分かるのだろうかと。。
結果、国同士が「万人の万人に対する闘争」状態になってゆき、とても不安定な時代をまた向かえるのでしょうね。。
時代の中で力の所在や社会のシステムが変化してきたように、世界レベルでそんな事になってゆくしかないのかなと思います。
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以下余談かつ追記です。
>建築というのは多くを選択し、配列することを要求される
同感です。
「全身小説家」というドキュメンタリー映画がありましたが。(評論に「全身小説家とは、全生活を賭けて虚構化しているということだ。」と)
「建築家」とはみな「全身建築家」と言えるのかも知れませんね?。
ただ例えば価値観や選択眼がおしなべてスタイリッシュであったりというのは「そういう建築家」であり。また別の価値観で自分に取って未知の地平を広げていく建築家もいるわけで。
誰もがグレン・マーカットのようにはなれるわけではない(彼一人くらいしか知りませんw)と言うことかも知れません。
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>世界レベルでそんな事になってゆくしかないのか
ただ国家対国家の闘争がイデオロギー中心のモノではなくなった時点で。
「世界レベルの闘争」のその様相がどのようなもの(姿)になるかは非常に難しいのではないでしょうか?。
じっさいこれまでの対立も「資源と資本の水平・垂直での分配方法を巡る争い」がすべてだったわけで。
アメリカは中国がいなくなると生産が出来なくなり中国はアメリカがいなくなると市場がなくなってしまいます。
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>せっかく人間に生まれたからには、一つでも多くの足跡を至る所に残す方が楽しいよう思いますし、
>建築なんてやっている人間はそうなんでしょうね。
ブログ主様を揶揄するわけではもちろんありませんが、建築関係者の端くれとして思うことはあります。
>デザインという言葉をもう少し広義に捉えてみています。
つまり「最大多数の最大幸福(ホッブス)」を求めて建築を作り。
そこに従事している業界人な訳ですが、広義のデザインの中には「経済モデルのデザイン」「ビジネスモデルのデザイン」というモノももちろんあるわけです。
建築ビジネスでそれが適切になされているとはとても思えないのです。
「リッチでないのに、リッチな世界などわかりません。
ハッピーでないのに、ハッピーな世界などえがけません。
「夢」がないのに、「夢」をうることなどは・・・とても。
嘘をついてもばれるものです。」と言って自死したCM作家の杉山登志という人がいたのですが…。
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そう考えると、もしかしたら「建築」は「デザインなされていない自ら」から目を逸らしながら自己言及する分野と言えるかも知れません。
(建築が外の分野を気にするほどに果たして建築が今気にされているのか?そこに目をつぶるべきではないと思っています)
それを素朴だからこそ偉大と考えるか、あるいは正確な意味での「建築批評」が存在しない状況をどう捉えるか…。問題の次数をひとつ上げる必要があるように、私には思えます。
『私たちは知性を計算するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分の見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。(内田樹)』と言う言葉を思い出すのです、自戒を込めて。
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「批評」については同感です。
criticという語義を考えると、常に新たな臨界点を探りつつ在るのが批評だと思っているのですが、時代の嗜好や作家名というものなどの中で、そんな意味での批評というのは決して成り立っていないのが現状ですが、(学者も含めた)内部の人間にはほぼ不可能に近いのかもしれません。
そんな意味で、メディアに作品や文章が載ってしまうという事がとても大きな足かせになっているのかとも。
そして、本当の意味での批評ができるとすれば、内田樹さんの言葉のようなスタンスこそcriticですよね。
その大切さは、大学の同期だった日埜直彦くんに教えられました。というか勝手に学びました。笑
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>私には、世界は「微細な中」「家族などを含む身近な関係性のなか」にその問題と解決のヒントを表してくるように思えてならないのです。
僕もそこにしかヒントはないと思います。
大きな関係性やシステムなんて、転がり出したら止められませんし、それが雪だるまのようになってしまっているのが現状でしょうか。。
まずは、雪と雪との結びつき方から解きほぐすしかない、というような。