茶室学講義/藤森照信

  • 2022.06.24
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10年前の本だけど、今読んだからとても面白かった、と最近同じようなことばかり。
まず藤森さんの建築の文章は面白いし好きだ立ったけど、作る建物は「反則」だとずっと思っていた。つまり僕らは自分の商売としての仕事のため、そしてご予算や用途、様々な現実的足枷の中で精一杯作っても、そんなの関係ね〜って感じであんな楽しげななものを、一流の建築の学者として一流の建築に触れ続けてきた経験をフル活用して作るんだから、「反則」。その中でも茶室なんてそもそも反則なのだから、二重の意味で反則。だからこの本は知っていたのだろうけど読もうと思わず、最近堀口捨己とかにやっとまともに向き合い始めて、改めて本書を読みたくなり、という経緯。
また「茶道」という形骸化したものには興味は湧かず、建築をやる身で茶室には興味はあれども実は、茶室という特殊な建築の領域については、建築学や、丹下さんのような主流はまともに取り合ってきていないのもあって、なんで躙口なんてあるの?という疑問も解消してくれなかったのだけど、ここにはあった!
かくいう藤森さんも茶室や茶道なんて興味がなかったようだけど、ちょっとしたきっかけで茶室を作るハメになり、勉強しながら作りながら勉強していたらハマった、という具合。でも躙口って、体がちょうど抜けられるような穴を通過することに集中すると「一瞬意識は空白化」して、入った後の光景が全くフレッシュに感じられる、という実体験を書かれていて、その後の茶室づくりに生かしているそうで、なるほど、と思った。でも利休などの茶室は基本は閉鎖的で庭を眺めるなんてタイプはないけど、藤森さんはそれでは息が詰まってしまうから、と高いところに登らせて外を眺め下ろさせたりするのだけど、なぜそんな閉鎖的なのかについて、「禅」との関わりを指摘していてそれはそうかもしれないけど、僕としては、本書でも触れられている、中国や台湾や他の国の茶(teaも含め)は、「主人」などはなくつまり使用人が入れたり、美味しく入れれば良いだけなのに、日本の茶道には主人が「もてなす」ことが何より大きな事としてあるからこそ成り立つ、濃い対人関係と関係があるのではないのか?つまりつまらん嫌な奴とじゃそんな小さな密室に居たくないよね、というw
他にも茶室、という建築様式?が世界的に見てもいかに不可思議なものか、それについて歴史や利休の登場など参照して解き明かしてゆくが、もちろん正解かは誰にも分からないけどかなり納得させられたし、とても面白かった。
3畳〜4畳半の茶室が結果多かった中で、利休だけ2畳という広さにこだわり、その中で様々な素材を寄せ集めたり、手仕事のような作り方をしたりしたのか?藤森さんは「上座部」というが、つまり仏教用語として、ある種、孤高な悟りを目指すスタンスであるから求めた空間だったからであり、そうでない人間にはつまり苦行的になるから、そこまで狭くもないし、上述のように藤森さん(あれだけ利休に酔心?した堀口捨己でさえ)は窓を設けもする、ということなのだろう。
まだまだ中身は濃く、興味深いのだけど、「茶道」の世界では茶碗など茶道具については深い興味を持たれ、語られても茶室への興味や語られる事はないそう。だから茶道なんて、って思ってしまうのだけど、本物の「主人」として「おもてなし」をしたいのなら、まずはどんな「茶室」を求めるのか、当然興味を持って、新しい茶室の創造があって然るべきところ、茶道側からはそれは全くなくて、藤森さんのような建築家がある程度やっているにしても、あくまで「作品」としてであり、それを使う主人としてではないのだから、やっぱり茶室という文化は凍結し、地中深く埋まりつつあるという事なんだろう。
だから本書はなかなか意義深く思いました。