苔のむすまで/杉本博司

  • 2018.02.19
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少し前も取り上げましたが、杉本博司という方、この表紙のようなピンボケの写真をモダンアーティストとして、高く評価されているようだけど、なぜ?って思っちゃいますよね。でも本書を読むとだいたい理解できますので、ご興味あればどうぞ。
あと、近年では芸術の延長として建築(随分お金かかってるんだろう)をやったり、若い頃は骨董商もやったようで、とんでもない価値のものも私蔵しているようだ。

それは、若い頃から芸術作家としてアメリカにいて、日本のことを色々聞かれて、結果日本にいるより日本に興味を持ち、歴史含め随分勉強されたようで、ただ自らの作品が順調に売れもしない中で、画家をしていた奥様が経済的な心配をして、日本の民芸品などをうる店を作り、それが順調に売れる中で彼自身が日本に買い付けに行くようになり、結果、骨董に思い切りのめり込んで全財産を使い果たすようなものまで買ってしまったようだ。でもとんでもない価値のものも売買したりしたようで多分随分それはそれで儲けたんでしょうし、「本物」に向き合った経験はなににも代え難いものだったんだと思います。そしてそのうち写真が評価され始めて骨董商はたたんでしまったそう。

「私が写真という装置を使って示そうとしてきたものは、人間の記憶の古層である。それが個人の記憶であれ、一つの文明の記憶であれ、人類全体の記憶であれ、時間を遡って我々はどこから来たのか、どのように生まれたのか思い出したいのである」という通りだから、写真はボケさせることによってその骨格が露わにされる必要があり、また海というモチーフは生命の記憶の源して繰り返し撮り続けられている。と分かればやっと、意図は理解できますよね。でもなぜ写真なのか?といえば、きっと骨董商と同じなんでしょう。日本の古い芸術には、作家の名前もわからなかったり分かってはいても西洋のそれとは違い、自然に、世界に、宇宙に、耳を澄ました結果として作られたようなものが多いように思いますが、杉本さんも写真を通じることで、絵画や彫刻のように作家の恣意性が混入しやすいものから遠ざかろうとされて来たんじゃないかな?と思います。

そして、日本で育まれ、育って来た美意識、というものが本当に素晴らしいものだ(った)ということを再認識させられますが、こういう存在、というのは私たちの世代ではすでに絶滅状態に近く、さらに若い世代にも現れそうにないように思いますが、なんとかしなけければ、という危機感だけは強く感じてます。