自然の奥の神々

  • 2010.06.06
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常々感じている事が書かれた本だったから本屋で見つけてすぐ買って読んでしまいました。
思考回路が同じだからかサラサラと読めましたが、文中の「人間が自然の一面しか認識していない事と、本当の自然が存在しないのは、同じ事なのだ」という意味がサッパリと感じる方には読みにくい本なんでしょう。
キリスト教においての原罪や仏教における煩悩から分かるように、人間とは自然や神(絶対的なものとしての)に対して不完全なものである事は人類としての集団的無意識として感じてきたはずです。
なのに近代以降の科学の発展に調子に乗って、人間が自然や神と同等以上だと勘違いしてしまった事が、様々な問題の根本にあると思います(これは本の内容でなく私見)
「知性、身体性、霊性あるいは生命性、この三つが結んだところに主体は成立する」という中で、近代は知性に優位性を与えすぎているという事です。
そして、著者は、全ての自然も思想もローカルなもので、かつ個別な身体性の中で感じられる事を強調し、一方で、つい普遍的な価値観にしたがる人間の傾向に警鐘を鳴らしています。具体的には「日本の思想を世界へ」みたいなものは危険であると。
「自然」というのはもともとジネンと読み、読んで字のごとくオノズカラの展開、という意味で使われていたそうで、Natureのように人間と自然を別けるような言葉がなかったので訳語としてシゼンという言葉ができたようで、つまり、ジネンとシゼンは違う言葉だそうですが、今では意味が混ぜられて自然、という言葉で使われていますね。
でもどちらにせよ、自然、というのは、オノズカラ、アリノママ、在る姿を指すのであり、一方の人間はそれを目指そうとも、我や煩悩というものから逃れられずに苦しまざるを得ない存在だと、昔の人間は皆分かっていたからこそ、自然や自然の現れとしての神を大切にしてきたんですよね。
そういえば、ギリシャ哲学で言われる「ピュシス」も同じような意味合いだと思うし、やっぱり原初的な部分では人類の考え方は繋がっているんですねー。
一方で、今の社会で語られる「環境」なんて言葉は、自然は弱いものだから、知性をもった人間が配慮してあげなければダメなんだ、というよな奢ったものにしか感じられませんし、根本的に間違った態度だと思っています。
僕が建築をつくりながら、何故こんな事を考えるのかと言えば、人間の知性(表面的に語られているもの)でつくられる建築には何も魅力を感じないという事が年々明らかに感じられて来て、それを乗り越えるためには、この本で語られるような自然/ジネンを自らの身体性や霊性で感じ、そこを出発点にするしかないと思っているからでしょうか。
まだまだ分からない事だらけだし、もちろん全てが分かるはずもないけど、謙虚に感じて考えて行きたいなあと思います。