空間の日本文化

  • 2014.04.19
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手元のは1985年の初版のものだから表紙も違うけど、大学時代に読んだはずだけど記憶がほぼ無いwけど有名な名著ですね。やっぱり外からの方がある世界の特徴が良く見えるのか、今読んでもとても新鮮に、日本というものの特異さを捉えています。
断片的に興味深い事が沢山あったので列記します。

日本人は虫の声や葉のざわめきなどの自然音が、西欧人と違い大脳の左半球によって知覚されていて、「日本文化は西欧文化に比べてこれほどに事前に価値を認めるのであり、また日本人は西欧人のように合理的には行動せず、情念に導かれやすい」と。ある種の先天性によるというのであればいくら生活が西欧化してもやっぱり日本人は変わらない(変われない)ということか。

「古い日本語(ヤマトコトバ)には、自然の概念を表す言葉がなかったが、これは人々が自然領域を自分たちの領域と区別していなかったことを示している。。。。だから重要なのは、自然とは何かではなく、日本文化が直接に、またあらゆる決定に先立って、知覚に襲いかかるものとしての自然に対し、どんな位置を与えているかだろう。」と。自然、という言葉はとても重要だと良く使っていきたけど中国からの概念でありそれはアリストテレス的な定義「運動自立性を自らのうちに持つもの」であり元々日本人はそんな概念さえ持っていなかったようなのだ。とても重要なことだなあ。

「 場所とは結局のところ、知覚に対し、あるとき、偶然に提供されるものに他ならず、それとの関連で主体は自らを適応させるのである。感覚に訴える、具体的な構成要素すべて具えた現象世界といっていい。。。。したがって、現象世界を超越する原理の存在も認めようとしない」そしてだからこそ仏教も日本に入って随分(特に禅で)変質したようだけど、つまり元々の大陸の仏教には原理がある、という事で、その辺は今読んでいる他の本で、また書くと思います。

日本人が個人単位ではなく、家族や町内や会社やそして日本という範囲までも「うち」と仲間意識で考えたり、逆に仲間でない相手にはとても排他的だったりするというまあ良く言われる内容ですがについては随分様々なあ例証をしているのですが、それはつまり主体性の無さというか、全ては関係性の中である、とういのが日本人だという事ですが、例としては、子供と親が一緒に寝る、「わたしたち日本人は」と良く言う、子供への罰は家に入れない事(欧米は外出させないことらしい)、あと町内会ですね、その辺りも今も変わっていないように見えるのでやっぱり日本人の根深い性根なんでしょう。あと温泉に裸で他人と平気で入る、というのも欧米人(水着着ますよね)と違った日本人の個人という認識の薄さのような気がします。

と読んできて、やっぱり持論である、日本人は細胞のひとつひとつ、もしくは働き蜂である、という事じゃないかと改めて思いました。つまり例えば人体の中のひとつの細胞も他の細胞と違う「個」であり出来不出来や寿命も微妙に違うわけですが決して個を主張したりせずでも全体としてある臓器を動かしたり、生命体を生かしたりしているわけで、更に言うとその生命体が集団となってその「種」を生かしているわけであり、そのどこの部分を切り取って「個」と考えるかについては著者も「現代西欧流個人は、目下の所、人類史上に他に例を見ない特殊現象だ」と言っているように、必ずしもひとつの個体(生命体)が一単位とは限らず、だから上に書いた通り、日本人は細胞であり、働き蜂(全体のために奉仕しているという意味で細胞的なもの)でしかなかったのではないか?という事です。

その理由は良く言われるように島国であり鎖国したことで、喩えると船に乗ってある集団が何年も旅行するようなもので、やっぱりお互いの配慮や身勝手でないことが最優先されるような状況だったのでしょうし、『「みられること」が日本人の行動の深い動機のひとつ」という、つまり他人の目をやたら気にするというのも同じ根っこなんだろうなと思います。まあ個性は育たない文化ですね。

あと、鎖国した事の影響もあってか、「国内での旅行は大流行だったのである。19世紀初頭、伊勢神宮参詣のためだけでも年間400万人の人々が街道を往来した。。。有給休暇時代がやって来る前にいったいどんな社会が、こんな文化的混ぜ合わせを経験しただろうか?休憩地、旅宿、気晴らしのための一大装置がそのために設けられた」という指摘は興味深いですね。

やっぱり「ゆく河の流れは絶えずして、、」というのが日本人の根底的なあり方なんだと思うので、日々死んでは生まれる、体の中のひとつの細胞、でも全体は昨日も、明日も、同じように続いている、という意味でやっぱり僕らは細胞のひとつでしかないんだよ、という感性は僕は好きなのです。