私たちが住みたい都市/

  • 2011.10.13
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読もう読もうと思いつつ、でも今週末「メタボリズム未来都市展」に行く予定でちょっと都市について頭を整理してみたかったので。
とてもバランス良く深く興味深い内容で、下記4つのカテゴリーでのシンポジウムのまとめを山本理顕さんがやっています。
「身体」ではサランラップに包まれる事で生々しい魚なども抵抗なく触れる、という世の中が様々な感性を変えて来た事(伊東豊雄)や皮膚で外界と接しているようで食物は口ー肛門で外界と接続しているということ、人間だけが掌の内側や腹のような弱い所をさらけだし(握手や抱擁)コミュニケーションを出来て、裏を返すと内外という「構え」をとれるのは人間だけだという。(鷲田清一)
「プライバシー」では元々プライバシーは家父長を通じて行なわれていて「近代」を通じて個人を通じる事になってきたが、戦中戦後の最低限の住宅政策のやむを得なさの結果でしかない所があったり、その2DKという本来当面の仮の住まいであったものが永住せざるを得ないものとなってしまい、結果ドア一つで閉じて、子や老いを家族内に抱え込む事になってしまった。というこれは理顕さんと上野千鶴子さんの話などで良くでますね。
「住宅」では51Cと呼ばれる2DKのモデルも近代国家がそれまでの家長やギルドとの関係から個人と直接関係を持つようになった事とお深い関係がある事や、その後の住宅モデルとされた(ファンズワース邸など)も特殊な施主用の住宅でしか無かったものであったのはおかしく、最低限レベルで比較や分析をすべきであった、というような事。
最後の「国家」では、磯崎さんと宮台真司さんでさすがに深い話でしたが、建築家はドグマを持つ特権階級であって顔が見えない集合住宅はできず(磯崎さんは一切自らやっていない)、結果ろくな建築は無く、コルビュジェの「緑、太陽、空間」はその前に出されたナチの「血と大地」を意識して出来たようなものだ、というのも面白い話でした。
システムなどの広義の「アーキテクチャ」は今後もいくらでも仕事があるがものをつくる狭義の「建築家」はこのアンチモニュメントな、脱空間的状況では「料理人」のようなものであると。
個人や家族で出来ないものは次の町等の単位、それで出来なければ次の単位で、と補完をしてゆくべきだ(宮台)というのは僕も以前から「民業補完の原則」という言葉が何故実行できないのだろうかと思っていましたが、建築でも確かに全てが上からの計画という形であったわけですね。
また「前提の考察をスキップする(宮台)」ことを建築家には止めて欲しいと強いメッセージがありましたが、それは理顕さんがまとめで、今まで「生活世界(抽象化されていない)」の住人と今まで話し合って来なかった、つまり理論が先に回答として用意されていたという事がどうしようもない状況の今になってやっと話さざるを得なくなってきた事を示しているように思いました。
いやシンポジウムのまとめなので読み易いのですが中身が重いので、半分メモ書きみたいになって消化されてなく済みません。
読み終わると、もう建築をやる人間にはどうにもならない状況だなと半分感じつつも、そうなって来た今までの局面で建築の側が様々に人間の思考や行動に制約や影響を与えて来た事を感じ、であれば改めて仕切り直す事で何かが出来るのではないかと思います。ただ、語られていたように
限界の超克をするには決して放棄ではなく、「徹底」を持って対処すべきだというように、徹底をするなかで「ズレ」を生む事で超克を目指すべきだというのは肝に銘じておかなければなと思いました。