歎異抄/梅原猛

  • 2019.08.25
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梅原さんもう一冊買ってあったので。歎異抄はお恥ずかしながら初めて読むのですが、僕には今読むのが一番良かった。つまりとてもとても大切なものだと。

「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」という有名なフレーズ。すでにいくらでも解釈がなされていると思うし、現代語訳は一通り読んだにせよ梅原さんの解釈で読んでしまっているから偏るにせよ、やはりこの意味を理解しないと歎異抄というか親鸞は理解できないと思う。

まず「悪」って、どんな人間でも本当に喜んでやる人はいないはずで、結局様々な周囲の状況がそれををやるように背中を押している訳で、親鸞の時代は結構な戦国時代で荒れた世の中だったからよりそんなことも増えざるを得なかったんだろう。それはまだわかりやすいけど一方の「善」とは?親鸞の師匠の法然が念仏を唱えるだけで極楽に行ける、なんて恐ろしく大胆なことを始めたのは、やはり仏教の世界がある種権威主義にまみれ、宗派同士の利権争も多く、表向きは高僧ぶっていても内実は私欲に走っている事情を変えたかったのもありそんな大胆なことを始めた、と言えるようです。そして「偽善」が「善」としてまかり通っていた訳ですが、それは現代もより悪くなりこそすれ本質は変わりませんよね。

また「悪」は生欲などの煩悩と呼ばれるものも含め、自らの意思では止められないことが多いけど、「善」は基本的に「自力」だし結局他人の目を全く気にして行われることはない(あるとすればそれは善とは呼ばない?)訳で、ということを前提とすれば、そんな自らの意思で周りの目を気にして善を行う輩より、本当に困ってやむなく悪を行う人間こそが救われるべきだ、というのは素直な発想のようにも思えます。

そして梅原さんの受け売りで何度か書きましたが、日本における仏教の真髄は、聖徳太子的な意味での「平等」であり、それは人間だけでなく動物や草木までもが同じく平等だということだと思うので、地位やお金や修行をしている時間があるような、限られた人間だけが成仏できるなんていうのは逆にあってはならず、だから日本は大乗仏教なのだということですが、それを実現して誰でもが極楽に行ける教義というのは何か?と考え尽くせば、「自力」ではなく「他力」に身を委ねさえすれば良い。つまり阿弥陀仏を心から信じさえすれば良い、ということなのだと思います。

だから親鸞は、ただ阿弥陀仏の前に皆平等なのだから、私には弟子はいないと言い、門下に多く集まってきたけれどそれをまとめようともせず、お布施のようなものは偽善だからと価値を認めず、事情があって関東にしばらく居て教えがかなり広まった後に生まれた京へと戻ったりした間に、門下のものたちが親鸞の教えに色々勝手な解釈をつけて広めようとして争いになったりもしたようで、親鸞の死後もそれは変わらず、だから親鸞と血縁にあり親しく接した唯円が、本当の親鸞の教えに対する「異」を「歎」くために記した、そうです。でも教団にとっては都合が悪かったようで、ずっと表には出されなかったという。

と、いつもの雑なまとめなのでご興味あれば是非ご自分でどうぞ。

でもとても大切だと感じたのは、何かとても大きな力に対して争わず、信じて全身を委ねるという姿勢。でも仏教への信心が薄い私たちからは「阿弥陀仏」と言われても抵抗があるかもしれないけど、多神教的に言えば「大自然」であり「大宇宙」であり、本質的には変わらないんじゃないかと思う。

でも「地球温暖化」と言う時、それは「偽善」でしかないし「科学技術」も「政治」も同じく偽善でしかないから、大自然は失われ、誰も極楽へは行けない、のかな。

今から原始時代には戻れないけど、みんなが「南無阿弥陀仏」と毎日唱えれば少しはそんな偽善が減ずるような気もします。