核について
もう震災から3ヶ月なんですね。
まだ8000名もの方が行方も知れずというのはとても心が痛い事です。
村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文
読みまして、自分の中で悶々としていたものが少しすっきりしました。
大した長さでないし全文読まれると良いと思いますが、抜粋します。
「何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。」
「我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。」
「しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。」
「広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから』
素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。」
「 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。」
「我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。」
。。。。
他にも良い言葉は沢山でしたが、原発関連だけ拾いましたので。
この全ての言葉をセットにして、僕は全くその通りだと思っています。
「セットにして」と書いたのは、他の事をせずして、「核に対するノー」の声がやたら大きくなっているように感じていて、それにはどうも違和感があったからです。
その前にやる事があるだろうと。
国民も共犯であり、経緯を知る努力と反省をした上で、国に対して怒りを表明すべきだと。
そして、「効率」を捨てる覚悟があるなら、日本の国力なんて気にしないという覚悟が本当にあるのか?
でも、それをさておきも、核兵器は憲法にて否定されているけれど、そもそもその「核」だって、科学者たちは平和利用しか念頭になく考えたものだろうから、でも結果がこうなのですよね。
つまり、やっぱり安全だなんて言ったって、核は核。春樹さんの言うように徹頭徹尾、No!と言い続けるべきだったのでしょうね。
と言っても今更です。
今からでも、我々の「倫理」というものを考え直し、それに基づいて行動すべきであって、とりあえず行動してしまっている現状を憂慮したりもします。
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>住宅作家化してしまっている(そのつもりではないですが)
わたしは。ここでも「住宅作家」という言い方の意味が変わってくるように感じているのです。社会の反映として住宅に世界を封じ込める…というかつて原広司さんなどが標榜していたこととは全く別、というか、かえって逆で。
スケール感が失われた世界では、住宅にこそ高精度≒制度として、世界を表現する可能性が出てきたんじゃないかと、そんな風に感じているんです。
えーと、例えが悪いのですが、米軍が公開したオサマ・ビンラディンの部屋と、日本の典型的オタク青年の部屋と、住宅メーカーのモデルハウス…これらが今ほど近似して見える時代は無いと思うんです(似てませんでした?でっかいテレビとベッドがあってがらんとしている割にものが雑然と…世界的テロリストと引きこもりと商品的住居が似てるってなんだか不思議な気がしたんです)。それってかえって考えがいのある時代なんじゃないかと。
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「悔い」ないためには「尽くす」しかないですが、かといって悔いないという確証はなくとも。。
僕は「セカイ系」とか疎い人間なのですが、書かれているように恐らく大きな転換の象徴でしょうか。
村上作品は確かに始祖に近いようにも思えます。
そして大学時に読んだハイデガーの世界とも何故か近さを感じました。
人という神(理性)が死にこそせずとも神の座から転げ落ち、理性によって引き裂かれていたバラバラなものが細部に小さな世界を生み出したというか。
部分の集合が全体なんかではなく、全ては部分でしかない、もしくは全てが全体だというような。
そんな意味でこそ、やはり住宅にこそ世界を込める事ができるのかなと、私も思います。
原さんはあの時代だからこそそのように表現したけれど、意外と同じ事を随分前に考えていたんじゃないかな?とも思ったりします。