日本的霊性/鈴木大拙

  • 2019.09.22
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買ったまま、このタイトルの近づき難さで放置してましたが、最近「親鸞復興」を読み返していたら引用されていて読みましたが、今の僕にはとてもピッタリでした^-^

まず、金沢に谷口吉生さん設計の記念館もありますが、改めて鈴木大拙という人は偉大だなあと再認識をしましたが、それはやはり仏教をきちんと身につけられたからだとも言えそうです。

また、ちょっと怖さを感じてしまう「霊性」という言葉、ほぼ使われていませんが著者からの説明で概ね理解できます。でも僕なりの言葉で説明します。

人間には理性や知性、つまり他人とも共有できる、つまり数学のように世界どこでも交換できるようなものと、各自の「心」つまり個別で、どうも捉えどころがなくて、決して他人と交換できないものがありますが、日本人とか同じ土壌に生きる人々が共有できるような大きな「心」ともいうべきものがあり、それが「霊性」。そして他の国や文化にもそれはあるはずだが、日本では鎌倉時代に法然ー親鸞の浄土思想や、禅思想によってやっとそれを我がものとすることができ、それを今でも持っているはずだという。

大きな心、じゃ全然説明は足りないけど、僕ら個々人の心というのは、目先の世界に執着してしまい煩悩とならざるを得ないし、それは生きるためにも避け難いことだけど、浄土思想が示した、絶対的な他力本願というのは、個々人が何をしようがそれによって極楽ゆけたり地獄に落ちたりするような事は決してなくて、私たちはもっと大きな力の流れの中にいるに過ぎず、それを自覚して「南無阿弥陀仏」と唱えればそれで良いのだ。そしてそれによって個々の状況への執着から逃れることで、その大きな心「霊性」の自覚ができるのだ、とそんな感じかなあ。それじゃ分からないと思うけど、こんな説明で分かられても困りますのでw。

またその他力本願というのはキリストとではダメかというと本質的に全然違って、吉本隆明さんの「親鸞復興」に書いてありましたが、親鸞は、阿弥陀仏じゃなくたって良くて、手段でしかない、というようなことを言っていたそうだけど、「絶対的」と感ぜられるものなら何でも良いということのように思いますし、だから経典に書かれていることに何も価値はないし、という意味では既存の他の仏教教団のあり方も全否定したようなものだったから、法然と親鸞は流罪にされたのですが、流罪にされ、都を離れ、農民のように生き、「大地」という絶対的に頼りになる存在との生活の中で、親鸞は更に浄土思想を完成させた、というのは大拙だけでなく梅原さんたちも言っていることです。

解説で、大拙は「大乗仏教の根本原理を『即非の論理』と呼んでいる」として、例えば「世界はすなわち世界に非ず、是れ世界なり」というようなことであり、その意味するところは例えば僕が「世界」と思っている事は僕が認識してきた世界にしか過ぎず、それを一度否定をして、破壊をして、その上で見えてくる「世界」こそが上記でいう「大きな心」にとっての世界である、というようなことで、それが仏教で一番重要な部分なんだけど、その否定や破壊は実はとても難しいことなのは理解いただけるかと思いますが、その手段としての絶対的他力本願なのだと思います。

そして、自分の限られた認識では「死」とは恐ろしいものに決まっているけど、「非ず」と破壊して、宇宙的スケールから考えれば、大地から生まれ、大地に還る、ほんの小さな流れの一つでしかないけど、その大地を信頼し耕すことこそ重要だから、浮ついた平安時代でなく、農民と武士が地に足をつけて生きた鎌倉時代に浄土思想が育ったのだ、ということらしい。

まあいつもながらに中途半端でまとまりのない文章で、自己満足的ですが、自分の頭の整理のためにメモしているようなものなのでそれも仕方ないのですが、今こうやって仏教系の本を続けて読んでいるのは仏教に興味があるわけではなくて、特にこの何でもありで経済的に強いものが価値観をも牛耳っているような世の中だからこそ、万人にとって本当に大切なことって何だろう?という意識を自分なりに持ち続けながら本を読み、色々な経験をしてきたところ、やっとここまでたどり着いた、とそんな感じですが、それは僕の今後の人生や、建築を作り続けることのためにも大きな道標になると思えるからこうやってちょっと頭が痛くなる本を、それなりに楽しんで読めているということでもあります。

そして、素朴な多神教的や神道のあり方も好きだし大切だと思いますが、真の意味で日本化した仏教、聖徳太子、空海、最澄、そして法然、親鸞という先達が目指してたどり着いた仏教は、本書にも書かれているようにインドや中国では育たなかったものなので日本独自の宇宙観とも言えるように思いますが、でもどんな世界もそうですが教団化して形式化して本質から遠く離れてしまっているように見える現状のほとんどの仏教にはそれはほとんど感じられないのでとても残念ですが、今後高齢化がますます進む私たち日本人は、改めてそのような本質的な仏教と向き合う必要があるようにも思っています。

まあでも書くならもう少し丁寧に書けよ、とは常々思ってはおります。。