日本列島回復論

  • 2022.01.12
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とても中身のある本でしたが、田中角栄の日本列島改造論への対抗意識のもと書かれたそう。
「改造論」は評価しつつも「改造の理論の根底にあるのは自己否定」で、地方も大都市のようにならなきゃダメだというやり方だったから、結局道路を作るほど人が出て行き、地方が衰退してしまった。だから「障害者ケアにおける回復(リカバリー)の考え方」つまり地方は都市に対してハンディキャップを持っていると考えず、その持つアイデンティティを伸ばしさえすれば良いのだ、という意味で「回復論」というタイトルだそうです。
また藻谷さんが「『里山資本主義』が越えられなかったゴールラインをついに突破した快作!」と推薦しているようにベースの考え方は同じかと思いますが、「改造論」への対抗として今までの経済の流れへの評価をしっかりとしていて、資本主義なんていうのはその本性が、安い労働力を求めづつづけるのだから今のように格差が大きくなるが必然だけど、角栄さんの時代の右肩上がりの時代には公共事業などで全国にお金をばら撒くことで再配分がとてもうまくいっていただけである、と。
次に、日本の縄文時代が1万年以上も安定して高度な文化も持っていたことが示すように、日本という国土は山水郷で十分に生きてゆくことができたからこそ農耕に急いで頼らなくても良かったし、「ポツンと一軒家」みたいな世界が今でも存在したり、それに憧れて都会を離れる若者も増えているようですが、里山というのは人間がある程度入り込むことによってバランスを取ってきたけれど過疎しすぎて山が荒れすぎて、獣たちが人間に害を与えたり、山崩れが起こったりしてしまっている。今後、きちんと里山に向き合わなければ都市だけで自立して残ってゆくことはできないし、日本(人)のアイデンテティというのはやはり山水郷にあるし、生命や安らぎの源でもありますよね。
面白かったのは「男はつらいよ」は1968年に始まり48作もある、つまりそれだけ日本人に愛されたということですが、1964年の東京オリンピックまでは寅さんのような人は沢山いて、日本の社会も許容していたけど、オリンピック以降急に居なくなって(つまり許されなくなって)そこに描かれる、つまり日本の高度成長を支えた勤勉さなどとは正反対の寅さんの姿の中に、失ってしまった心の豊かさを感じたからこそ48作も続いたのでは、というくだりです。そして寅さんのように、ダメ男?でも帰りたい場所や助けてくれる人たちがいるという事は、昔の日本の村などが持っていた特質でもあり、今も少なからず残っているし、稼ぎにあくせくせず、資本主義と程よく距離をとりながら、寅さんのように生きるのは、気楽そうだけど辛いことも多い(だから男はつらいよ)けど、だからこそ得られる人と人との濃い関係というものを失ってはいけない、というということに誰もがどこかで気づいているのだと思います。そして、ペリーの黒船が来てから、また敗戦後、「国力」を高めることだけが日本の目的のようになってしまった中で「個人」の幸せなんてものを求めるなんて、寅さんみたいなものだ、という雰囲気になってしまっただけで、それ以前の日本人は自然を愛しみながら、自由に楽しく生きていたのだと思います。

そのほか中身が濃く(私のまとめは下手なので)ご興味あれば読んでいただきたいですが、「山水の恵みに満ちたこの列島、その津々浦々で多様な暮らしが営まれ続けること、それ自体が価値を持つ時代になる」ことで、格差社会なんてものがそもそも問題とならないような、そして必然的に自然環境を大切にするような、そんな社会になることを、日本の山水郷にはその力が秘められている、というようなお話でした。

国でも会社でも、いざというときに守ってくれるからこそ尽くすべきものだと思いますが、もうそれは国にも会社にも求められない時代になってしまいましたし、国も会社も自分を守ることしか考えていませんので、やっぱり僕ら個々人がもっとそれに対して防御をしてゆかなければいけない、嫌な時代なんだと思います。そしてその一つの方法は著者が示すような、都会から離れることですが、皆がそれをすることはできません。そこで書いたこともあるかもですが、僕が思う、個々人が実践できることとしては、「大資本」が売るものをできるだけ買わない(車とかどうしようもないものもありますが)です。不可能だと思いますが、食品の成分表示と同じように、1000円の定価のものの金額が、それぞれどこに支払われるか、という表示を義務付けられたとしたら、できるだけその素材を生産し、加工する、つまりその商品を作った人にできるだけ多い割合が届き、それを右から左に流して設けている大きな力(資本力)無駄に儲けさせない。それによって必然的に格差が小さくなり、化石燃料の使用や森林破壊など、そんな問題も小さくなってくるのだと思います。だから形式だけの「SDG’s」なんかより、上記のように本当にそれを作っている人に直接大きなお金が届くような製品を認定してラベルをつける、みたいなことができれば良いのですが、資本社会ですからそれは許されないのですよね。
我田引水ですが、だから、地域の木材や自然素材で、職人で、無駄な営業もせず、できるだけ多くの工事費が、素材や職人の手元に届くような、そんな建築の作り方をすることに大きな意義を感じています。