新建築6月

  • 2009.06.01
  • BLOG


坂本一成さんと日建設計の「東工大蔵前会館 TOKYO TECH FRONT」が表紙でした。
隣に篠原一男さんの百年記念館(右下にちらりと見える)が建っていて、対比が興味深く思えます。
設計者も語っているように、とてもオブジェ的で象徴的な百年記念館と対照的にボリュームや存在感を抑えて、押出成形セメント板を多用したのも目立たなく、印象に残らないためだとありました。
でも、それで良いのだろうかと、ついつい、篠原さんの本などそれなりに読んでいるので感じてしまいました。つまり、建築が、「意味」の世界から逃げてしまって良いのだろうか??と。
正直、この建築にすごい物足りなさを感じるのも、意味を敢えて漂白してしまっているからです。
モダニズムは確かに「均質空間」という理念を残しただとは思いますが、僕は、決して「意味」まで均質化したとは感じませんし、決して意味を漂白しようなんて意図は無かったと思います(違うかなあ)。
もちろん、意図的に恣意的に意味を付加しようとする事には強く否定をしたいとは思いますし、既存の「固定化」した意味を繰り返す事は危険な事だとは承知していますが、人間というのは、意味を求める事から逃げられないと思いますし、建築もそこからは逃げられないという事だと思います。
どんな風に建築をつくろうとも、当然印象や意味を生じざるを得ない事を自覚した上で、いかに、固定化した意味を無駄に繰り返したり、意味を押し付ける事から逃れるかを考えるべきなのかなと思っています。
ちょっと(かなり)分かりにくいですよね。
乱暴な言い方をすると、文化というのは意味の積み重なりであって、衣食もその世界。一方文明というのは意味を消す事によって、発展を目指す世界。とするとやっぱり建築というのは文化の世界に軸足を置く(もちろん文明も必要としますが)べきだと思います。とやっぱり分かりにくい。
篠原一男さんは、日本文化は回帰点では決してないけれど、出発点だと語りました。
そこに込められた意味をもっと良く考えたいものです。