新建築5月

  • 2012.05.04
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隈さんの浅草文化観光センター。
「屋根によって大地とボリュームを繋ぎとめる」ため多層のビルに「平屋性」をもちこみ、「屋根と空間がしっかり対話」させることで「地面と建築を再び繋げようと試みた」そうです。
さすが隈さん。言葉巧みだなとw。もちろん設計も巧みだと思います。
でも「繋ぎとめる」のは今後どのくらいの年数を思っているのか?
50年後にこのデザインがどのように目に映るのだろうか?時の試練に耐えられなければ消え失せ繋ぐも何も無くなるように思うから、「大地」みたいな悠久な相手を持ち出さない方が良いのではとも。
さて、西沢大良さんの「現代都市のための9か条」第2回が載ってました。
前回では、近代都市計画が、長期的外部的な視点を欠いていたため人口流動に起因する問題を引き起こし解決できずにいる、というような内容でした。今回も近代都市について分析しているわけですが、つまり産業革命時の蒸気機関による公害や工場、また疫病といったものを防ぐために機能的なゾーニングを行なって規制をして、結果解消されてしまったけれどもそのシステムだけが残り、それが「かいわい性」という都市の大切な質を抹殺してしまった。と。雑に言うと、理性的に考えて実行したら感性が失われてしまった、みたいな感じかもしれません。
そして処方箋は、「活動禁止的な側面」が段階的に無くなり「環境的なゾーニングによる街区形成はは、機能的なゾーニングによる地区形成(近代都市計画)に比べて、非常に多種多様の生存環境を都市の中につくり出し、その環境に活動(機能)が追随するという、環境オリエンテッドな街づくり」を提案していて一定の自然環境、人工環境が得られるように細かな特性の項目を立て、街区ごとにそれぞれのグレード設定を行なう事でそれを誘導する。との事です(伝わりにくい。。)
方向性としては良くわかるのですが、それがまたある種の形式的な規制となり活動禁止的なものになるのではないのか?と感じたのですが、一方でその計画主体としては「市民や世論」こそ「真の発注者」であるべきだとともあり、それも確かにそうだけど机上の理想論にも聞こえます。
また地方都市のコンパクトシティが間違った方策だという理由として「ある都市域の面積縮小が都市活動の長期持続性の向上に繋がると言うのであれば、税収云々でなく、外部とやりとりされるエネルギー、食料、人、情報、技術の総量が縮小前より高くなる事が証明されなくてはならない」し、単に国交省が効率を享受するだけだと。
「総量」の話はもちろんそうだし大切な点だと思うし、中心市街地への変なノスタルジーは一度捨てて冷静に考えた方がいいと思うけれど、改めて中心市街地って何かと考えてみて、「学級委員長」みたいなものかなと。つまり他の生徒もいて、必ずしも彼(彼女)じゃなくてもいいし、権限などの強さも殆どない〜強大までの巾が考えられて、でも一応その学級の顔的役割や外部との強い交渉役でもあるみたいな立場で、でも他の生徒だって外部と接して個別に交渉もしている中でその学級委員長に何を求めるべきなのか?という問題と相似なのかもと。
その意味でもやっぱり委員長が余り弱って、他と変わらなくなってしまうのはその学級の「総量」のためにも良くないんじゃないかと思うので、ノスタルジーではなく何とかしなければと考えます。
そしてコンパクトシティというのは、ある種、委員長に権限を集中する事に似ていて、だから西沢さんが言うような縮小した結果を招くというものとは逆だと、僕は思っています。
が、行政の動きを見ていても、戦略性に全く欠けているようにしか見えないので、西沢さんが言う「長期的外部的」視点を強く持ち、戦略を立てた上で動いて欲しいものだと思います。(市民ももちろん)