新建築11月号

  • 2009.11.09
  • BLOG


隈研吾さんの根津美術館ですが、隈さんの建築を見ると「策士策に溺れる」という言葉をいつも思い浮かべてしまいます。
思い切って言うと、つまり、全体としての建築としては決して良くない、ということです。
でも、栃木の馬頭広重美術館だけは、素直に美しいなって感動できる建築でしたが、ほかの雑誌で、根津美術館の館長?だったかが、馬頭美術館は全体が木のルーバーで覆われていて掃除が大変そうなので、天井を張って掃除がしにくくならないようにしてくださいとお願いしました、と書いてあり、感動した心もちょっと寂しくなってしまいました。
確かに素材の使い方、ディテール、空間の在り方、それぞれ「新しいな」って感じますが、それ以上でもそれ以下でもないのが、つまり「策に溺れる」という事だと感じます。
僕も設計者の端くれですから、あんな有名な建築家になりたいな〜って正直心のどこかでまだ思っては居ますが、でもきっと、ああいう存在になってしまうと、常に何か新しいものを求められているという、追われた気持ちで建築を作らざるを得ない状況になってしまっていて、本当に隈さんが良い!と思えるものを作れていないんじゃないかなって思ったりもします。
そもそもここで新建築という建築馬鹿の雑誌をネタにしている理由は、建築家と言われる世界というのは、科学者や数学者と違ってもっと社会や人びとに密接に関わった仕事をしているはずなのに、科学者や数学者たちのように、人びとには伝わらない言語で、閉じた世界を作り、その中でお互いを評価し合っていて、でもそれが日本の建築の大きな流れに大きな影響を与えてしまっているという状況は、決して良いと思えないからです。
そしてその閉じた建築馬鹿の世界と、日常の世界を接続して語る責任が、僕たちみたいな地方の設計者にはあるのではないか!という気持ちからこんな事を書いているのかと思います。
でも、建築は芸術である!と聞いたような宣言をしてしまう時点で、僕の書いた事は戯言のようになってしまうのですが、もちろん芸術的側面は間違いなくあるけれど、でも本当に芸術としてつくりたいなら建築は辞めて、ちゃんと芸術家になれば良いだろって思っています。
雨が漏って、使いにくくって、コストばかりかかって、結局長く存在できないようなものを建築と呼ぶ事に、僕はとても抵抗があるから、だからこんな事を思うのですが。。