数学する身体

  • 2017.10.05
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これも小林秀雄賞だそうで、受賞作、とか逆に避ける僕でもやはり小林秀雄ですからw。本作、つまり岡潔論のようなもので、僕は好きなので楽しかったけれど、特段作者の思想、というのは主張されていた訳ではないかと。

でも数学の歴史の部分で興味深かったのは、まだ算用数字(何気なく使っていますが「算用」ですから計算用のという意味なんでしょうね)が生まれるずっと前のギリシャ人には「思惟は、、独立なる個人を前提し、公的に対する私的な思惟を許す立場ではない。内心における思惟ではなく、外的表出において成立する思惟である。、、、共同的対話的な思惟である。かくのごとき思惟あるいは思惟法が証明的あるいは論証的形態をとるのは自然であり当然であろう」という下村寅太郎の言葉だそうですが、そして作者はそのあと、僕も人間という存在を考える上でとても重要だと思っている「ミラーニューロン」つまり他者が何かをしているのを見ているだけで自分がそれをやっているような脳の反応がある、という事が、岡潔のいう「わかる」本当の意味である、と書いていますが、それはきっと同じ事で、「真実」なるものが人間から離れたところに存在する訳ではなく、人々が共感するところにこそ真実が存在する、という事ではないかと思います。
でも一方で、算用数字が発達して、数学がそんな人間の生な部分を排除して究極的に、アランチューリングがコンピューターを生み出す理論へと至らしめるけど、そのチューリングは、ドイツの暗号を解読し、戦争の終結を早め多くの人の命を救ったと言われているそうですが、その後、人工知能の研究に勤しみつつ、42歳という若さで自殺?他殺?この世をさってしまったそうだ。でも、人工知能というのは、僕は岡潔がいう「わかる」に至ることはできないので、所詮いつまでも機械の延長でしかないと思うし、それを「知能」と呼んでしまうことで、人間が「わかる」をさらに忘れてしまうようになる方が恐ろしいことだと思う。

岡潔は数学に没入するために大学を辞め、百姓をし、とても苦しい生活の中でも、自然と向き合い、読経をしたり、松尾芭蕉に傾倒して過ごす中で、そんな「境地」に至ったようだし、「無心」「有心」を行き来する、つまり「自他を超えて通いあう情」を持つことで初めて「わかる」事ができるし、そのためにはそんな生活が必要だったのだろうと思うし、それは岡潔が極めた数学だけでなく、何かを極めるためには共通して必要なものだと思いますので、本書は「数学」の可能性を扱った書、ではなくて「岡潔」の可能性?を扱った書のように思える。

でも数冊しか読んでなかった岡潔さんの本をネットでまとめて注文してしまいましたw