小林秀雄と木田元

  • 2024.01.22
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何かに紹介されていて飛びついて、読んでからしばらく経つけど。。
大学の卒論に関連してハイデガーの存在と時間を読み、難解過ぎるために木田元の「ハイデガーの思想」だったか読んで、わかった気になって助けられた思い出がありますが、小林秀雄に関しこんな本を書いているとは!?という感じ。
「なにもかも」と言ってもただ木田元が進んだ道は結局先に小林秀雄が歩んでいたんだ、というような話でもあり、そんなに小林秀雄について熱く語っている本ではない。でも上記のような経緯で、ハイデガーと木田さんの間のことについてはとても興味深く読んだ。
若い頃深く傾倒したドフトエフスキーやキルケゴールについて「深い信仰心がある。、、『絶望は罪である』と規定され、今度は『神の前に』という別の視点から絶望という罪の深まりが追求されてゆくのだが、、無信心な私には全くお手上げである。なんとか神や信仰の話を持ち出さずに、絶望している人間の存在構造を解き明かしてくれる本はないかと探し回った」時に、ハイデガーは「無神論の立場で人間存在をその時間的構造に即して分析し、いわば人間の本来的な生き方を指示して見せているらしい」と知り、なんとか「存在と時間」を理解しよう、ということで哲学の世界に入ったらしい。
でも最初は深い部分は全然理解できなかったようで、実際存在と時間は続編があるはずだったのを、ハイデガーは挫折?して出さなかったようで、その後に記されたものなどを追いながら、ハイデガーの深いところに少しずつ近づいたそう。その辺りが上記の「ハイデガーの思想」に書いてあったと思うけど、思想的転向がありその後は芸術などへ傾倒してゆく。
そこに関しては僕もとても興味があるところなので長いけど、、
「作品のうちで世界と大地は<闘争>の関係にある、ハイデガーは芸術作品のうちで行われる世界と大地とのこと闘争こそが真理の生起であり、真理の実現態(作品のうちにある状態)、つまり真理が作品となって現れ出ている状態だと主張する。芸術作品とは、混沌ともいうべき大地と抗争しつつ世界が開かれ、そこに存在者が存在者として立ち現れてくるそのありさまが、いわば増幅されて現れ出てくる場面なのだと、ハイデガーは考えているらしい。」
何故どこの民族でも、古代に洞窟に壁画を描いたりして、それがとても高い芸術性を持っていたりしたのか?人間という存在と芸術には強い関係があり、それを通じて人間というものが見えてくる、ということだと思う。だからこそ芸術は作品の金額で測られるようになっては本質を失うし、今の芸術家は本当の芸術は生み出し得なくなってしまっているのだ。そして芸術を失った人間は人間たり得るのか?というのは言い過ぎかもしれないけど、僕はそう思っていたりする。
そしてそういう意味での小林秀雄は、芸術や文芸や音楽、骨董などに至るまでの芸術性というか、強い美意識を持って向き合い、それを批評家として発信し続けてきた。木田さんはそれらに「教わった」ということなんだろう。
ハイデガーは動物やものが「存在」する、というのと全く違った次元に人間の存在のあり方があり、それを「現存在」と呼んだのだけれど、ハイデガーでも小林秀雄でもそれの本質を芸術に求めていたということで、繰り返すけれどそれは資本主義の「商品」となってしまった今のアートや音楽や建築とは本質的に違うものだし、それを軽視して放置を続けたら、人間は単なる「存在」になってしまうのではないかと思う。AIの時代になり、考える力も感じる心もより奪われた先に「現存在」はあるのだろうか??