変身xカフカx自分とは?

  • 2020.07.25
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先日、親しい方と久方ぶりに飲んで、その時に、子供からの本質的すぎて答えに困る質問、みたいな話で盛り上がり?ました。
そしてずっと読んでいる仏教関係でも、結局「自分」とは何者なのか?という問いに尽きるように思うし、それこそが大人も子供も問い続けるべき一番大切な問いなのでは、と思って、ふっと「変身」を思い出し、本棚から漁って再読しました。
ご存知の通り、ある朝起きると大きな虫(ムカデ的な)になっていた主人公グレーゴルの話なのですが、何故、家族はその虫をグレーゴルとして扱い続けたのか?(いや最後は死んでくれと思い死んでしまうけど)そしてグレーゴル自身も、自分の姿がまったく変わっても、家族を家族と思い続けたのか?当たり前のようだけど、そこに本題の「自分とは何か」が隠れているように思いました。
でもそれだと少し分かりにくくて、では逆に、朝起きたら、自分は全く自分のままなのに、全く見たこともない環境、つまり見たことがある樹木も、動物も、太陽も、海も、親しんでいたものが全く目に入らない環境(それは全て言葉で表現できないものだらけだから文学にもなり得ないでしょうけど)に囲まれていたとしたら、まあ気が狂うような気はしますが、「自分」はもうすでにどうでも良い概念にならざるを得ないように思います。
話が余計ややこしくなった感もありますが、何が言いたいかというと、自分がいくら変わっても、周りに安定した環境(人間、家など)があれば自分が自分だと認識されるのに、自分がそのままでも周りに何も知っているものがなくなれば、自分はおそらく崩壊する。それはつまり、「自分」というのは周りの安定した環境に囲まれているという関係性の中でしか成り立たない、本当は不安定なものでしかないのではないか?ということです。

じゃあ子供に「自分って何?」って聞かれたらお前はどう答えるねん?に答えなきゃですね。
うーん「機械の歯車の一つみたいなものでしかないよ」かな。
歯車だけではそもそも歯車でもない(役に立たない)
でも全体として動いている時には他の歯車とも違う形と役割を持っている(他の歯車に代わりになってもらうことはできない)
「お前は会社の歯車でしかない」みたいな言い方は、使い捨てられても他に代わりはいくらでもいる、という意味でこの歯車とは本質的に違う。

まあ重たいテーマの割に思いつきで書いてますので、より良い例えが浮かんだら書換えようっと。