四季の創造/ハルオ・シラネ

  • 2020.12.07
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書評を読んで買いましたが、僕にはとても興味深く、考えさせられました。著者は日本人だけど科学者の父とアメリカに住み、アメリカ人になるべく育てられたので大学に入るまではほとんど日本にも興味がなく、ロンドンに留学したときに川端や三島をどう思うか?と聞かれたことをきっかけに自分のルーツである日本に興味を持ち始めた、、その結果このような本を書くようにまでなっているのですが、まあその中にどっぷり浸かっているより、離れて外から見た方がいろんなものが見えてきたり興味が湧いたりするものかもしれません。
そして本書の価値は、従来日本人たちが自己分析をして考えていたような日本人の自然観が、実は正しくなくて、ただ、そういう自然観だと思い込みたかっただけでは?というところを炙り出したところですが、つまり、日本の恵まれた自然の中で、日本人は繊細な自然への感受性を自然と育んできた、ということはなく、それは和歌などによって「創造」され、それが広がることである種洗脳が行われた、というようなことです。
確かに和歌には美しい自然への繊細な気持ちが詠まれ、その後茶道にしてもそんな自然観を強く持ちながら育ってきたり、結果現代でも外人から見れば「Cool」な日本人があるわけですが、もっと昔の古事記、日本書記の時代にはあくまで自然は未開で恐怖な存在として描かれてきたようです。そして考えてみればわかりますが、和歌に詠まれた世界は、「生」な自然ではなく人為的に育てられたりしたものだったり、脅威を与えるものでなく、優しい部分のみを詠んだだけだったように思いますよね。そしてそれは選ばれた上流階級が、庶民の厳しい日常とは無関係に為してきたことだと。

そして時代が下り、庶民にも余裕が出てくると、そんな上流階級の遊びを嗜むことが流行り、また現地にはゆけなくてもそんな和歌を読んだり、浮世絵師の描いたものを見てそこに行った気持ちになったり(今の旅番組みたいに)する過程で、自然は優しく美しいものだ、という洗脳がなされて来た、というのは確かにその通りじゃないかと思いました。

でもそこまでの話なら「だから?」という面がないこともないけど、自然を愛するはずの「近代俳句や伝統芸術に携わる人々は、より大きな環境問題への意識を高めるために先頭に立つことはしてこなかった。この点から見ると、日本文化に二時的自然(上述のような作られた自然)が広く行き渡っているために、日本人が一次的自然、つまり野生の自然にも親しんでいる、あるいは調和しているという誤解を生んでしまって来たのかもしれない」というのは重たい指摘だと思う。これについてはたまたま次に環境問題を論じた本を読んでいるので改めて書きます。

また、あとがきの中で興味深かった指摘が、日本ほど、食用のための牧畜をしてこなかった国はなく(それは「風土」では気候のせいだと論じられてますが)、「島国である日本では、豊富な海の幸と山の幸に恵まれた食文化があったことが関係しているのではないか」それが「植物型の食体系の中で、植物品種改良を発達させ、植物と季節に対して極めて敏感な文化を生み出した」。とありますが、確かに牧畜には「四季」はあまり必要ないけど海の幸、山の幸は「四季」の感覚と一体と言ってもよいし、今私たちが愛でる桜や紅葉だって園芸種として改良されたものをせっせと植えた結果でしかないでしょう。
そして、本書では触れられていないけど、海の幸山の幸は、あくまで縄文の文化であり、教科書(今のはよく知らないけど)ではその後の弥生文化の方が発展系で優れたもので縄文は野蛮なものと思わされているけど、少し勉強すればわかるように、縄文にはとても深い文化があり、実はそれが今の日本、日本人の根っこを作っている面があり、それがいまだに色濃く残っているのが沖縄と北海道なんだけど、以前には沖縄、北海道「開発庁」なんてものもあったように野蛮で開発されるべきものとして見て来た、という証拠ですよね。(脱線です)

何しろ、貴族が寝殿造で季節の歌を詠んでいたような気分で地球環境問題を考えてる日本人は真っ先に海底に沈んだ方が良いですよ、って感じかもですね。