啓蒙/永遠平和/カント

  • 2019.08.13
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随分前に買っ放置してましたが最近仏教系が多かった後に読んだらまた面白く読むことができました。

仏教といっても大きな幅があるのは日本でさえ様々な宗派、また東南アジアなどの小乗仏教との違いを見ればわかりますが、日本こそは大乗仏教が行き着いて、唯一?発展した国であり、その理由は聖徳太子の「和」に象徴されるような、全ては「平等」というところにあるのだと理解してますし、でも仏教全体自身がもともと平等な宗教であって、だからこそそれが発祥したにもかかわらずカースト制があるインドでは仏教は決して広まらなかった、というのはやっぱり民族の持つ性質とそこに育った宗教の性格というのは切り離せないものだということです。

という前置きをしたのは、やっぱりキリスト教圏にはもともと日本と全く違った考え方の人々がいて、合理主義的に、つまり自らの「理性」を信じる、人類の理性によって世界を治めることができる、という発想が生まれて育まれて、その大家としてのカントのような人がいて、でも明治の「脱亜入欧」によって日本もそれらを学んで取り入れてきたから今ではすっかり同じ人類だと思ってしまっているけど、本当は違う生き物なのだ。そしてその違うという事実をしっかり見つめることが必要で、例えば狼に育てられた狼少年は、狼といる間は自分は狼だとしか思えないだろうけど、狼と引き離され、人間と暮らし始めることできっと、自分が何者かを発見できるのと同じように、私たちも日本人とは何者かを発見しなければならないし、そのためにも狼(つまり西欧)を他者としてどんな生き物なのかをしっかり見つめる必要があるように思います。という意味で本書が面白かったのです。

詳細を手際よく紹介できる力量はありませんが、ざっくりいうと、人類とは「高み」を目指すべき存在であり、その過程や目標に啓蒙や平和があるのだけど、ここは面白いと思ったのは、そのためにはある種の「競争」が不可欠で、森の樹々は競争して太陽を求めることでまっすぐ高く育つように人類もあるべきで、だから全くの平和状態が来ると人間は堕落するので、戦争や適度の緊張状態は必要なものでもある、というのです。

そこで最初の話に戻り、さて、日本人は西欧を知る前はそのように考えていたのかどうか?ということですが、僕はやっぱり全然違うと思うのです。

例えばナスカの地上絵を、西欧的な頭でその存在理由を探してもまず見つからないのは、発想が全く違ったからであり、存在理由を知りたければ当時の彼らの発想方法を知ることなんだと思うけれど、学者もテレビも、みんな西欧的発想でそれを不思議がって、的外れな仮説を立て続けている、というような例は世の中溢れかえっていますよね。

かなり脱線気味でしたが。。