吉村靖孝さん

  • 2011.03.06
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金曜日にレクチャーシリーズの都市の現象学、吉村靖孝さんの回を聞いて来ました。
僕より1つ若いですが、オランダのMVRDVという設計事務所に居たり、ちょっと今の日本の閉じた建築設計とはスタンスが違ったりで、注目されている方です。
特徴的な活動としては、建築が「法」によって規制されている側面のリサーチをを「超合法建築図鑑」という本で出版していたり、あとは自ら(奥さんがやっているそう)不動産を動かす側に立って新たなタイプの別荘(Nowhereシリーズ)を作っていたり、あとはこのCCハウスです。
設計図をどうぞお使い下さい、そして改変は自由です、と配ってしまうのですが、一定のルールの中で、ルーツがきちんと分かるようにしたり、課金(これは検討中のよう)したりとする中で、子供、孫と生まれて行き、結果無名性ありつつもある一定の質の環境ができてゆく、というような。
一見軽い企画のようにも感じますが、ちょっとこの文章や最近の住宅特集で語られていた事などを読んで、深く考えてみるべき部分を含んでいるなと思いました。
それは私たち建築設計者のオリジナリティ、そして存在意義にも関わるものですが、僕らがオリジナルだと思っているものには一体どんな価値があるのか?そしてそもそも価値なんてあるのか?と、一度再考を促すようなものです。
またついつい質疑をしてしまったのですが、吉村さんが「相同性(遺伝などのようなルーツを持った)」と「相似性(たまたま結果が似ている)」という言葉の使い分けをされている所にこのCCハウスをやっている根っこがあるように思い、確かにそのようでしたし、ルーツを持つ事によって何らかの文化的蓄積ができる一方、相似的であるものには蓄積は無く、一代限りのものになってしまう事にも問題意識を持たれているようでした。
例えば伝統文化なんかは、一子相伝など、ルーツと蓄積を持ちますが、建築の世界というのは実はそんな面もあるようで、オリジナリティを持たなければならないという強迫観念もあり、師匠と違う道を敢えて歩んだり、似たようなものをつくっても評価されなかったりもして、そんな意味では僕は時代の流行の結果表面的に「相似」的な良く無い状況になっているんじゃないかと思います。
表面的な微妙な「差異」を競っているだけという、内輪の満足な世界というか。
しかし自分の描いた図面をばらまく、というのは覚悟のいる事ですね。
でも実は誰かがそれを使う事で自分に悪影響があるなんて事はまずないでしょうとも言えます。
設計者同士は表面的には仲良いようで、実はそんな部分は結構クローズだったりしますが、それでは建築文化としての蓄積がなされず、文化として成長しない、というのは以前から問題視してましたが、昔漫画家たちが「トキワ荘」でお互いとても良い関係で切磋琢磨したような、そんなお互いオープンだけど、結果それぞれ個性的な作品が出来ている、そんな雰囲気になったら良いんじゃないかとも思います。
じゃああなたから開いたら??と言われますね。笑
最近、原広司さんが、建築の「内輪」から逃れるために遠い世界を調査していたと、そして異分野の交流に重心を置いている姿がとても在るべき姿に思い、異分野のつながりをつくろうとしていますが、でもたまには建築設計の世界でも「良い意味で」つながってゆかないと、逆に何も変わらないからまた久々につながりもつくろうか、なんて今回思いました。
これを読んでる物好きな設計者の方たち、一度お話しませんか??って皆さん恥ずかしがりやさんだからなあ。笑