利休の茶室/堀口捨己

  • 2023.07.22
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先日の利休の茶、に続き。同時期に書かれたなかなかの古書。
利休の茶の湯への影響の大きさから「日本の茶室」と言い換えてもおなじだ、と。
そして当時の「現代建築の立場で利休を取り上げる」「既に言い古され、伝え古された利休が、実は古いものではなくて、新しいから」「言い古され、伝え古されたのは、茶人たちのマンネリズムの中の利休だけである」「利休研究は実に未踏の処女地なのである」と、もう74年前の言葉だけど。。
何百年と続く茶室の歴史から、利休の足跡を選り分けるのだし、細かい専門知識(僕は建築の専門家だが茶室の専門家ではない)に溢れていたから、建築を作る上で気になったところの抜粋を。。
以前から数寄屋の木は色付けするのが習わしだったが、利休はそれは「いやしい」として白木で使うようになり、それが今に続く住宅の作り方にも影響を与えたそうだけど、今でも和食屋に限らず最初から濃い色に染めて作られるのをよく目にするけど、僕もあれは単なる下手の誤魔化しと思う。
全ては「侘茶」の実現のため、ということなんだろうし、その追求の結果が極小の茶室で「小座敷ならでは茶の湯の本心は至る事難し」と利休は考えたけど、やっぱり上流階級の皆さんには2畳などという広さは定着しなかったのだろう。けど、真髄はそこにある事を忘れてはいけないのだろう。
茶室の庭は、茶室での行いと一体のものと考えれば当然なのだろうけど、落葉したり、花や実がなる木は「侘び」の邪魔になるから松や樫などを用いたそう。それによって床の花や掛け物が生きるのだろう。そして浮世に対する、浄らかな世界でなければならず、、、となると、白木も含め、神社みたいだね。
利休がつくったと考えられる茶室は妙喜庵だけしか残っていないようだけど、その後大きな影響を与えられた茶人たちが作る茶室は、床柱や落し掛など、利休より細く力弱くなって今に繋がっているそうだ。確かに新しいものは細く、僕もそれがかっこいいと思って来たけど、最近「和風」に近づきたくないと思っていると、その細さがその原因じゃないかと思って、今作っている竿縁もいわゆる竿縁より太いしさらに細く見せるために面を取ったり、なんてことも考えない。
また妙喜庵しか残っていないとは言え、かなり多くの茶室などを自ら作ったり間接的に影響を与えたりして来たようで、多くの試行錯誤もしたようだ。その結果でもあろうけど「利休が示した建築意匠の力は驚くべき域に至ったもので、前々からのしきたりに拘りがちな番匠大工、彫物や絵様に心なづむ棟梁などが企て及ぶところではなかった」という下りに強く励まされるのだけど、我々設計専業者はそうあらねばならないのだ!!
たまたまネットで、琵琶湖文化館?隈さんの設計で、と見たけど、読んでみれば「PFI」つまり案で隈さんが勝ち取ったわけじゃなく、事業全体の色づけとして隈さんが入っているというだけだろう。そしてそれではやっぱり「驚くべき域」のものなど実現できるわけがない。から僕はPFI反対派なのだ。
最後に飛雲閣について、なんだか奇妙な意匠なのだけど、「この建物の意匠理念は全くアンシンメトリーを根底として繰り展べられた組み立てそのもの」で金閣、銀閣と同類の建物だが意匠理念が全くかけ離れている。それを生み出した力は「同じ理念から成り立っていた茶の湯より他に見出し得ない」「窓の付け方や柱の立て方、、、何らかの形で利休に関わりある特殊なものを、そこに少なからず見出す」「ここにも用いられた意匠の上の収まりや纏りは、後に日本らしさとして認められるもので、この含みにおいて建築史的に大きな在り方を示している」
飛雲閣がそんなに??というのは堀口さんだからかもしれないけど、金閣銀閣は確かに綺麗すぎるし、「侘び」からより遠い雑然とした世界になってしまったからこそ、「なんちゃって」じゃない本当の詫びを探しにゆかなければいけない、のかも。