保身から捨身へ!

  • 2019.02.02
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タイトルは本書とは関係ないですが、読みつつ昨今の政治の劣化から思ったことです。

著者は30歳過ぎたくらい。何はともあれ若い世代がこういう言説を始めるのは良いことですね。目から鱗、という内容はなくとも、今の年配たちが政治を動かしているやり方があまりにも彼らの「保身」的であるかを感じさせてくれるような、つまり政治家もテレビでコメントするおじさんたちも所詮「権威」となってしまっているから言いにくいようなことを当然のように並べている、というものでした。

いくつか気になった内容について。

「ポリテック」つまり政治と技術を掛け合わせた造語、それが日本が抱え、解決できずにいる問題を乗り越える鍵となるという。今話題の勤労統計の改ざん問題は大変「悪質」なものだと思いますが、それは結局「人間」がやっているからで、統計なんて全部AIに任せれば良いと思うけど、コンピュータなんかに数字を出されたら困るお偉いさんがいるからそうはならないんでしょうね。それ以外にも役人がやらなくても良いことはまだまだあるように思います。

「ベーシックインカム」これは著者もそうすべきと言っているわけではないけど、冷静に、今回の消費増税対策でとんでもない複雑なやり方を強いられる予定ですが、その複雑さには全て私たちの「手間」つまり本来は「賃金」が必要なわけで、それは一例ですが複雑なやり方で徴税して、複雑なやり方で国民に配分しているために莫大な労力=税金などの無駄を生じているのは明らかで、それをもっとシンプルにして無駄をなくすために、制度が変わるごとに「自分は損した」「あの人は得する」というのをやめなければいけない。

著者ではない方が書いている内容でしたが「社会保障」とは「日本特有」なもので、戦後の焼け野原で給食制度を作るために奔走した元GHQのサムスさんという方が「国は、全ての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」として憲法25条を書いたそうですが、こんな内容はアメリカの憲法にも書かれていないそうです。つまり戦後の状況を乗り切るため、でもあったのですが、今の我々はなんだかそれを当然の「権利」として考えてしまってないでしょうか?みんなが権利を主張したらどうなるか、わかりますよね?

そんなこんなで思ったのは今の社会は「保身」に溢れ過ぎていて、それを変えるには「捨身」というと「身を切る改革」みたいな結局誰もやりたくないからやらない、というのではなくて、誰のために我が身を捨てるのか?それは大切な「みんな」のためだし、昔の日本はそれが当たり前でしたよね。儒教のため、とよく言われますが、中国や韓国の儒教ではそんなことは教えないそうで、「自分が自分が」というのが昔からだったそうです(今は日本もそうなった)

でも僕が思うのは、日本人には「自らを捨てて」が一番合っているのに、それを今アメリカや中国に習って「自分が自分が」とやっているから自分が見えなくなってしまっているのでは?ということです。

また市長選や国の選挙もあるわけですが、大切なのは「何をやるか」のマニュフェストなんかではなくて(それは自己実現的だから)「いかにやるか」という態度の問題。つまり、「捨身」で政治を行う、という覚悟、というより、志の高い政治家さんにはそれは当たり前なのでは?とも思ったりもします。

そしてもちろん政治家だけでなく、私たちもみんな「保身から捨身」へと変われば、無駄も、恐れも、疑いも、争いもない美しい世の中になるのにな〜なんて「イマジン」風に夢想してみました。