ツァラトゥストラはこう言った

  • 2016.06.18
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ずっと蔵書だったけど、ちゃんと読んだのか記憶に無い^^;けど、最近ルイスカーンについて香山壽夫さんが書いていた文章に,カーンはニーチェが言う「遠人」に思いを届けようとしていた?というようなものがあって、その内容を理解したくてきちんと読んでみました

まあしかし良く分らない喩え話のようなものが延々と続くので訳分からないと思うかも知れませんが、訳者の文章にあるように、聖書をもじったような文章がとても多いそうで、有名な「神は死んだ」はもちろんキリストなわけですが、聖書やキリスト教を理解していないとついて行けない部分は多いんだと思います。でも日本人もすっかり西欧的な思考回路に矯正?されている訳ですから半分理解できなくてもやっぱり重要な事を伝えようとしている本です

学術的に厳密な評なんて書きようもないので、私の独断で思ったことを。

キリスト教においては人間は不完全で神が完全。そしていくら逆立ちしても神にはなれないのが前提。だから自らを否定し、悩み続ける事を宿命づけられているのですが、ニーチェはそれを否定して、神はいないし人間は自らを肯定して、完全な?「超人」を目指すべきだと。そして人間は獣と超人をむすぶ橋の上にいるのだと。またその「肯定」は自分を信じ、愛する事から始まるが、それができないから「隣人」を愛せよと神は言う。でもそれは自立できない人間がもたれかかりあっているだけなのだから、まなざしを遠く持つ、つまり「遠人」を愛せよとなる。また超人は太陽に喩えられるけど、太陽は我々には大きな恵みだけど、太陽はそんな事は一切意図していない。つまり遠人愛とはそういうこと。

そして超人への道として「意志」しなければならなく、それは自らを自由にし創造することなのだが、神がいる限りは不完全な人間には意志や自由や創造は禁じられている、という逆の意味になる。まあ神だけが僕らを不自由にしているわけじゃなくて、漱石も「とかく人の世は住みにくい」と書いたのも同根なんだと思ったりもします。

あと超人同様に重要な概念に「永遠回帰」がありますが、なかなか難しいので無理矢理簡単に言うと、悩みや反省ばかりの人生を永遠に繰り返したいとは誰も思わないが、超人として自らを信じて自由と創造をしていれば、永遠に繰り返される事に苦はない、というか、太陽は毎日昇って沈んで与え続けているのも永遠回帰である,と言えば分かりやすいのか、僕の誤解なのかも。

と、ここまで来て、じゃあ自分が超人になれるか?というと神になれないのと同程度に無理じゃないか?と普通思うかもしれないけど、獣と超人の間の橋で少しでも超人に近付く人間が増えた方が僕はやぱり人類全体として幸せなんだと思うし、宇宙の星々や大自然を見て美しいと感じる理由があるとすればそれらは永遠回帰的な存在なわけだから、人間の中には永遠回帰に導かれる本能があるんじゃないかと真剣に思いました。じゃなければ、なぜそれらが美しいか説明してください。

ニーチェは言う神はキリスト(やそれに類するもの)なんでしょうけれど、今で言えば「お金/経済」がその神に代わって、我々から自信や自由や創造を奪っていると言えますので、むしろそちらをこそ「超えて」ゆかなければならないのかな。

最後に本流には関係ないけど文中に「これらの建築は何を意味しているのか?どう見てもここに建っているのは、偉大な精神の反映ではない!」とありましたが、そうです!偉大な精神を建築に埋込まねばならないし、それは遠人に対する愛から生まれるものだろう、と考えさせられました。