それでも、読書をやめない理由

  • 2012.05.05
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何となく落ちは読めていたような、でも読みたかったのは、多分作者も漠然と結論は分かっていながら本書を書いたのと同じで、改めて自分に言い聞かせたかったのかもしれませんし、同じ気持の方がいれば是非読んで欲しいと思います。
まず現代の特徴として「わたしたちは、自分たちが今まさに、そのただ中にいる問題についてさえ解説を求めたがるのだ。今まさに自分たちが主役である世界についてさえ、こと細かに知りたがる。4年間の任期の半ばも過ぎていないというのに、どうして大統領としてのオバマを評価できるだろう?」
「仏教徒たちは、水を描写するには泥が沈むまで待て、それまでは水の本質はみえないと説く。だがオンライン上では浮き上がった泥が鎮まることはない」
また、本と映像の本質的な違いとして、「本が内側から外側を照らし出すものに対し、映像はその逆なのだ。言葉とは内的なものだ。私たちは、他者の記した言葉から、自分なりのイメージや映像やリアリティをつくり出さなくてはならない」。補足すると映像って文字の何百倍やもっと多くの情報を(電子書籍と、それが映画化された映像のそれぞれのデータ容量を考えてみれば)必要とし、その映画監督が文字では読めない様々な特徴を恣意的に付加するので、見る側はそれを創造的に見る必要がなく、それもあるから映像って見ていて楽ちんなのかなって思います。だからこそ「読者は本と一体化する」ことを求められ「深い読書は決して受動的行為ではありません」という。
また「紙の本はわたしが集中できるよう助けてくれる。読書以外にすべきことは何も提供せず、目の前でページを開いて横たわり、わたしが目を落とすのを静かに待っている」と引きネットに氾濫する活字たちや、電子書籍との(様々な機能が付加されつつありますよね)大切な違いを思いつつも、フィッツジェラルドの「本物の知性の試金石は、相対する意見を同時に考慮しながら、なおかつ自分に化せられた役割を果たす能力があるかどうか」を引きつつ、「もしも、電子書籍が、人と本が再びつながるように促す力を持つものだとしたらどうなるだろう?」と可能性も感じていることは認めています。
そして結びの言葉として「最近、わたしはこれを静かな革命の試金石ととらえている。静かな革命とは、、、何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだ。そして、私たちが物事に向き合わないことを何より望んでいるこの社会において、読書とは没頭することなのだ。読書はもっと深いレベルで私たちを結びつける。」
時々仕事中にデスクで長い、深い文章を読もうとしてもなかなか頭にはいって来なくてイライラしたりするのですが、そんな時はやっぱりデスクを離れて集中できる環境(アンプラグドですね〜)で読まなければいけないなあとか、読書中に横にスマホがあるとやっぱりダメだなあとかずっと思っていたので、この書を機に、読む時は本だけに向き合うように努めようと。
どんな人生にも少しは他の人を感動させたり学ばせたりする部分があると思いますし、本も同様だと思います。
自分の人生は一回きりだけど、読書をすることで他の(それもとても内容のある)人生を、短い時間に生きることができるなんてすごいことだなと思うけど、もちろん一方でそれを感じ、考える力があるかどうかでその読書という経験が薄っぺらにも、本当に豊かなものにもなり得るのだと思います。でも、世に溢れる断片的な情報たちからは(ほとんど)それを得られることはできないでしょう。
上記の「抵抗」や「革命」という言葉は僕も本当にそうだと思いました。
それは読書に対することだけではなく、建築という世界もそうで、情報が溢れ、本当に深みのある建築に向かい合う機会や能力が益々無くなっていっているように思える中で、同様の抵抗をしたいなと常々思っています。