さよなら仏教

  • 2019.05.08
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書評で見つけ、両親も自分も着々と歳をとる中で「葬式」について真剣に考えておかなければな、と。

著者はお寺に生まれ、やむなく割り切って坊さんになってみたけど、形式化した世界に存在価値が見出せず、でもきっかけがあり「死」というものと思い切り向き合うようになり、自らのお寺や活動を通じて、死にゆく、それを送る人々が少しでも「死」に向き合えるように努力されてきた、という方です。そしてその一つとして、葬儀屋さんにパッケージとしてお任せしてしまうことで必要以上にお金を取られ、また無関心のまま済ませることができるようになってしまっている現状を変えるため、お寺が全てを引き受け、また故人たちと一緒に「葬式」を作り上げることで、死や葬式の意味を改めて感じることができるようにされてきたそうです。

よく言われることですが、昔は病院で死ぬなんてことなくて、自宅で看取られて、葬儀屋さんもなくて、「葬式仏教とは、本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない現在の形骸化した日本の仏教の姿を揶揄した表現である/wikipedia」という言い方もあるように、そもそもはお寺とは修行?の場であり、葬式なんてやっていなかったのが、明治時代に妻帯が認められ、代々継ぎながら生計を成り立たせるために葬式で食ってきた、というような現実があるそうですが、つまり今当たり前のことは少し前までは存在もしていなかった、ということですね。

そしてこれまたよく言われるように、現代の我々は「死」からどんどん遠ざけられていて、それもあって自らの死生観というものも育たない。で、多分それもあって、老いて病に侵されても、とりあえず死にたくない人々と、とりあえず延命させれば儲かる病院側と、という構図が世の中の足を引っ張っているようにも思う。本書でも紹介され、ご自分もスイスなど行かれたそうだけど、延命をせず「自殺ほう助」を認める国もあるわけで、死にも「選択肢」があるからこそ自らの死を能動的に考えることができる、というのも真実だとは思うし、僕はそれを希望したい。

両親は団塊世代、僕らは団塊ジュニア世代。墓地も葬式の費用も、今後ますます大きな問題になってくる中で、今までと同じような、残された身内たちに負担しか?残さないような死に方は自らの生の価値をも貶めるものなはずだし、仏教的に言えば死は終わりではないのだから、負担は極力残さず、生きてきた「心」しっかりと残す、そんな死に方をしなければいけないなあ、と改めて思いましたし、これは前から思ってますが、僕は病院でなく、この家で最期を迎える、というのは何があっても実現させるつもりです。