これでいいのか?住宅設計者
住宅特集の記事に「20011年に掲載された、、2000-2010年の間に3度以上の掲載がある設計者を対象」としたアンケート結果が載っていて、やっぱりか、と思う反面これで本当に良いの?と思いました。
それは、2011年に竣工した住宅件数が0-3件の方が76%、0-2件が64%もいるという状況です。
他のアンケートにありましたが、総予算もそれほど高くない中1件あたりの設計料も恐らく平均300万も行っていなさそうなので、単純にかけ算をすれば76%の方が多くても年間に1000万設計料を手にして、50%程度の方は500万にも満たないという事じゃないかと読めます。
もちろん事務所を経営するに当たって家賃やら機器やらスタッフやバイトの(安かろうと)人件費やらを引くと平均して半分程度は無くなると思われるので、設計者に残るの金額が300万以下という層が半数近くいるという事のように推測できたりします。
確かに僕も最初数年くらいはそんなものだったし、もちろんお金が好きでやれる仕事ではないとみんな分っているとは思いますので、これも想定内の事実だったかもしれません。が、数千万の予算を背負う設計者というのはとても責任と能力の要る仕事である事を考えれば、やはりこの結果に対して何か真剣に考えなければいけないと思いました(本誌には一切コメントは無し)
何故能力のある方々のはず?なのにもっと依頼が来ないのか?
こんな夢のない状況で次の世代が頑張ろうと本当に思えるのか?
定期購読していますが、どうも作品たちを見ていても、どうも社会から理解されない閉じた世界の中でいかに目立つかを争っているように(一部は本当に素晴らしい方ももちろん掲載される、から買っている!)思います。ま、文句言われる筋合いでもなんでもないですが。。でも設計事務所全体でもっと価値を認められるような仕事を積み重ねてゆけてこなかったからこそ現状がこうであり、やっぱり変えてゆかないといけないと思います。
現状を自慰的で軽薄で、こんなだから大きな力になり得ないし、自らの首も絞めていると感じます。
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実はこの文章を書き始めて、途中から自分でも自分のスタンスが良くわからなくなっていたのですが。。
多分「表現者」について、僕はそれには該当せず、たまに口にするのですが「職人」だと思って設計をやっている節があって、そこが大きな違いなのかもしれません。つまり、何と言うか自分で選択の「自由」をもっているのではなく、耳を澄ませて聞こえてくるものをつくっているだけというか。。だからある種の差別化を必要とされる雑誌掲載にはあまり(もちろん無いと言えば嘘ですが)興味はなかったりもしますし、掲載されているものの7割以上かな、、そんな差別化を一生懸命表現しようと振り回されているような姿にガッカリしたりもします。
確かに設計者側から言えば、自由な表現者であることも自由な選択肢であるべきですが、社会から見ると、特に住宅レベルでなぜ設計者の表現を押し付けられなければならないのか?とも言えるというか、僕はそう思っています。
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やっぱり、建築というのは特に今の時代、経済活動の道具としての面もあり、もちろん建築の芸術性というのはとても不可欠な部分だと思っていますので、「股裂き」状態なんだと思いますし、だから「どこに行っちゃったんだろう」という事が起きているような気がします。
この世界のミッションは何ですか?と聞かれたら誰かきちんと答えられるのだろうか??というそんな実は根無し草的な状況のようにも感じられます。
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「みみをすます」楽しみに読んでみます。
表現、という言葉、ちょっと狭義に使っていましたが確かに広義に言えばある種の意図をともなうものは全て表現とも言えますよね。
「茶碗をなでるように」というのは余りにもそうでない発想や手法が主流化してしまった今だからこそ、ひとつの意味のある選択肢であるように、僕は感じているので今のような設計を選んでいるといえるかもしれません。
確かに、何かを既に前提としているにもかかわらず、その前提が所与のもののように疑わないまま世の中がよりその前提を見失わせる方向に走り続けている、というのは一度見直すべきですよね。
卒論の時に現象学を多少読みかじったお陰で、多少そんな意識を持てているので何とか良かったなと思うのですが、少しボーっとしているとすぐに流されちゃいますよねw