おどろきの中国

  • 2013.04.20
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というタイトルなんだけど、実は読み終わって、日本の方がずっとおどろきの国なんじゃないかと感じました。
でも、やっぱり知っておくべき中国の特殊な部分は沢山あるようで、まず良く言われる「中華思想」ですが、「世界に唯一無二で、世界の中心だと考えている」し、日本や朝鮮など周辺国も歴史的に、貢ぎ物をする代わりに国として承認をもらいながらそれを認めて来ている面もあって、日本は「辺境」であると内田樹さんが書いたような事は、日中関係を考える上では知っておかないと行けないことだと思います。関連して、中国には「神」の代わりに「天」という概念があって、中国共産党や政府が統治を任されていて、それなりにその統治が上手く行っていれば絶対的な力を持ちうるという事や、中国では北京語と広東語が全く通じ合わないように、中国というのはEUのような緩やかな結びつきを古代から持つ事ができていて、それは意味はお互いに分かる「漢字」というものがあったからで、でも漢字を使えるのは(難しいので)ごく一部の官僚だけで、少数の彼らが科挙のようなシステムで選ばれて巨大な国を統治し続けてきたのではないか、と。
そんな中国だから、自分が中心だと信じて来ているから、敢えて周辺国を侵す事はして来なかった、というのも理解ができますし、ずっと長い歴史の中で日本なんて子供のような対等でない存在であったにもかかわらず日中戦争が始まるのだけど、元々日本は中国と戦争するつもりではなかったのだけど意図せずして始まってしまった。つまり意図もなく始めたのだから、謝罪するにも謝りようがない。そしてつまりその大義がはっきりしていなかったからこそ暴走もしてしまったのではないか、と。また、ナチスのようにはっきりと責任を問える対象がなかったこともあり、尚更に謝罪もきちんとできなくなってしまう一方で、ドイツは今もなおナチ的なものを禁止したり補償を継続し続ける事で信頼を得て来ているという大きな違いとなっているようです。
どの話が真実か?というのははっきりしないかもしれませんが、軍部の暴走の中でひどい事をしてきたのは多かれ少なかれ間違いない中で、罪と責任というものをごっちゃにしてしまって、結局まともな謝罪も出来なくなってしまっている日本の状況という話には納得できるところもあり、そこは日本国としてきちんとしなければ諸国にも逆にバカにされているんだろうなと思います。
と、最初に書いたように、ここで日本という国の不思議さが浮かび上がってくるのですが、それが本書の目的ではないのでそれ以上触れられているわけではないのですが、本書でも言及されている、リンカーンの有名な「of the people by the people for the people 」について思う事があります。僕は「of」という英語は「の」なんて訳したって何のこっちゃ分からず、逆に言うとどうやってofを使えば良いか日本人は理解できていないんじゃないかと前から思っていまして、of というのは「out of」つまり何かから出て来るという意味だと何かで読んで理解をしていましたし、of the people も同じく、人民から生れ出た、という意味と理解していて、その意味では日本の政府は決してそうではなく、byやforより、リンカーンも最初にofを使ったのはそれが前提だからと考えれば、日本の政府は一番大切な基盤自体が無いと言ってよいのかもしれません。
そしてその延長として、本書でも、北朝鮮や台湾、尖閣問題、もそうですが、全く外交がなっちゃいないし、本来もっと外交を良くしたいと本気で思っているなら、相手の事をもっと知り、譲歩すべきところは上手に譲歩しつつ、こちらの狙いを無駄無く実現するという戦略性を持つべきなのに、それが全く欠けている。そしてそれは多分上記の理由で機能し得ないからなのかもしれません。
本書はとても興味深かったのですが、だいたいが、日本は歴史的に中国にすごく親しんで来ていたはずなのに、今は「おどろきの」なんて状況になってしまっている時点で、日本として、知ろうとする努力を怠り過ぎて来たのではないでしょうか。
最初に書いたように,まずは日本という国を自らもっと知るところから始めなければいけないようです。
ただ、宮台さんのこの言葉を読むと、更に新たな機能不全の原因があるので、こりゃ大変だと思います。
「いわゆる先進国と言われていた国々は、いま、参加と自治という意味での民主主義とグローバル化した資本主義のあいだの両立不可能性に悩んでいます。その理由はおもに2つ考えられます。ひとつは、グローバル化の元で新興国がどんどんせり上がって来る中で、右肩上がりでなくなったので、富や財の配分比よりリスクの配分が主題化しやすくなった。つまり不安ベースになって、それゆえポピュリズムが起動しやすくなり民主主義が合理的な政治的決定に結びつきにくく。もうひとつは、グローバル化すると、政治が参照すべきパラメータがどんどん増えて、残念ながらひとりの政治家が見渡せる領域が非常に狭くなり,テクノクラート(高級技術官僚)に依存しがちになった。つまり、主権概念が有名無実なものとなり、行政官僚制の自己運動に帰結しやすい。だから合理的な決定に結びつきにくくなっている」
で、この見方でアベノミクスを眺めてみるといかがだろうか??