超越感覚/日経サイエンス

  • 2013.11.04
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当たり前だけど、五感、というものが独立している訳も無く、別々に働かせるために発達した訳も無く、動物として、全てを動員して生きて行く為によりよく変化してきた結果だと思うから、こういう企画の文章を読んでいると、科学者ってなんで一度バラバラにしてみないと気が済まないんだろ?(分析する為には当然だが)って思いますし、いちいち驚かんでいいだろ、と笑ってしまうときもあります。
例えば,白ワインを赤く染めてしまうと、一流のワインテイスターでも狂ってしまうそうだし、五感は常に組み合わさりながら働く事によって、本来はより正確に外界を感じより素早く反応できるのだと思う。
また匂いに結びついた記憶は他の記憶より古く記憶されるらしい(僕には余り覚えないなあ)けれど、多分それは、特に視覚、次に聴覚や味覚というのは、様々な知識によって偏見を抱え込まされてくるけれど、匂いや触覚というのは、そいういう偏見を植え込まれにくいので、生まれた時から余り変化しにくいというかピュアさを保てているからじゃないかなと思うし、そいういう意味で、僕は触覚って大事で、木の手触りとか、裸足で板の上を歩く気持ちよさとかって人間の感覚を取り戻すためには有効じゃないかなと良く思います。
あと、「50.100.150年後の世界」という特集もあって、50年後に「一家に一台、空飛ぶ車」が十分にあり得ると書いてあったけど、あと自動車の自動運転技術なんかも最近良く聞くけれど,僕は余り普及しないと思う。人間の感覚ってやっぱり歳を取ったところでそう簡単に機械には追いつけないし、余程の安全運転を強いられそうだと思うから、そんなゆっくりで良い人以外はイライラするんじゃないかと思うし、機械がいくら発達しても、ロボットの技術もかなり限定的にしか使えていないのと同じく、難しいと思う。
150年後のコンピューターは?では、今のような塊としてではなく、体の一部になって場合によっては脳と交信するようなものになっているだろう、との事で、まあ技術的には可能そうだけど、でもそんなものが必要?嬉しいか?と言うとそうでもない気もするし、嬉しく無いというか夢を感じないものなんて実現してもしょうがないような気がする。もちろん仕事とかには必要なものもあるだろうけど、日常で、みんながサングラス型のコンピューターを装着して、常に何かしている、というのは気味が悪いし。
また、宇宙船で数千人が住むようになる、という話。これも技術的には可能だろうけど、余程の環境悪化や核の脅威から逃れたいという理由でもないと、地球や知人とお別れする事になる訳だし行きたいかなあ?また核戦争が、テロ集団のために起きてしまい、数千万人が亡くなり、やっと核廃棄に世界が同意するだろう、というのもありましたが、多分大けがをしないと分からないんだろうけど、きっといつか原発事故と同じで大けがをせざるを得ないのかな。
そこで思うのは、私たち人間は、一度、もっと動物的な感覚を取り戻すべきじゃないかと。頭で考えているから問題がこんがらがって、先送りされて、更に問題が大きくなったりしている事だらけだけど、感覚的にダメなものはきっといつかダメになるという意味で、その感覚を信じて決断してゆかないと大変な事になりそうな気がします。