翻訳と日本の近代

  • 2011.12.23
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以前から今ある日本語の中に以前はなくて英語が入って来た時に「つくられた」ものが多数ある事(例えば建築もそれ)、つまりもともと日本には無かった概念が、翻訳され新たな日本語が使われるようになった事で新たな道具を得たように新たな思考ができるように(せざるを得ないように)なっている現状を当然のように受入れてしまっているけど、何故元々日本にその概念が無かったのか?という所に何か日本の本質が読み取れたりするんじゃないかと思っていまして、それで読みました。
丸山真男、加藤周一の対談形式なのですが、内容はかなり難しい。のですが。。
翻訳の背景として、それまでの中国に接して来たようなゆっくりしたものでなく、いきなり黒船が現れた危機感の中で余りに知らなすぎる相手であるためにとにかく急いで学べというような背景があったということ。一方の中国は「中華思想」のために日本のように外来語を取り込むような真似はできなかったからか、結果として日本から訳語を結構輸入していたりするようですが、先日の「日本辺境論」と同じ文脈ですね。
何しろ色々な経緯や色々な人間の努力で今ある訳語に落着いていますが、そのちょっとした訳語の違いだけで誤解されたりやたら大衆に受入れられたりと大きな影響があったという話が様々に語られていますが、言葉の力の大きさというか、言葉で伝え合うしかないのだから当然ですので、そんな事についてはもっと普段から意識的になるべきだと、改めて思わされます。
またそれまで東洋にほとんど無かったような、抽象的な化学や物理学などの翻訳を通じて概念を消化せざるを得なかったのですが、それまで無かったといことは、水と油のような面もあり、でも受容して行く中で随分世界観というものが変わって来たという歴史も福沢諭吉のような人が随分悩みつつ言葉にしていたようです。そしてそんな複雑な経緯の結果として様々な訳語を作り続けた結果として、日本だけ?が大学で英語以外の母国語で論文を書く国だそうですが、つまりどんな専門的な概念も必要なものはみんな訳語をつくってしまっているという事なんでしょうね。
でもさらにその結果が,恐らく日本人が英語を散々勉強させられていてもしゃべれない状況なんでしょうね。いくら偉い学者さんでも英語ができなくても良いんだから。
たまたま今日茂木さんのtwitterで英文和訳、和訳英文、それも不自然な文を未だに入試で出し続けているのは即刻止めないと若い脳の無駄遣いだと書いてました。ですよね。
まあ思う事は沢山ありますが、でも、福沢諭吉のような最も有能な人間たちが、国や政治をつくる中心に居た時代で、その結果としての今があるという事実が、現状のような有能な人間は経済の中心にいるだけだろ?という時代との対比の中でちょっと考えさせられました。