美味しい、と美しいと。
ちょっといつもと違う感じですが(笑)、料理は程々に好きでして。。
とそんな紹介ではないのですが、美味しい、買うべき食材とそうでないものが写真で並べられているのを見て、確かに美味しそうな方が美味しそうに見える、というのは何故だろう??という当たり前のようで、実は不思議だなと。
動物は食べなければならないから、やっぱり食物は美味しそうで食べる事を誘わなければ動物は食べようとしない。だから実際美味しいものが美味しそうに見えるように出来ている、というのは納得できるところです。
一方で、「美しい」というのは何なんだろう?というのは建築をやっている人間なら不思議に思い、読み漁っても、結局、オーダーだの比例だの、もしくはちょっと怪しげなものだの、という位しか見つからないんじゃないでしょうか。
人間の美人の定義が時代によって変わるように、建築も似たような所があるんでしょうから、普遍的な「美」なんていうのは定義出来る訳がないという所でしょうけれど、それ以前に、何故人間が「美」感じるのか?というのが不思議じゃないですか?
孔雀みたいに生殖の為に異性を惹き付けるため、というのは分りやすい所ですが、僕たちが建築や自然を見て美しいと思う事は、何らかの生物的な要求があるところなのだろうか??
僕のいい加減な仮説ですが。
美しいというのは、多分他の動物には無い、つまり文化的な代物で。
文化自体もそうだと思うのですが、人間というのは、道具や言葉を使う事で進化したと思われていますが、裏を返すとそれなしには存在できない弱い存在だと考えられるわけで、同様に、美、というのもそんな弱くて不安定な人間存在を補う為に生じてきた感覚なのではないかと。
突っ込みください(笑)
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色々言われているように、やっぱり「死」こそが人間の本質であって、それを前提にしてこそ人間存在は見えてくるものですし、ハイデガーも結局「存在と時間」を何らかの結論づけることが出来ないまま、芸術的なもののに視点を向けて行ったところを見ても、そこに人間の本質的なものが隠れているように思います。
世界が幾何学空間でない事が既に明らかなように、時間も目盛のように進んでいないのですが、現代人はそのように思い込んで行きている。それは死を隠蔽している裏返しでもありますよね。そして沢山の事が見えなくなってきています。
全てがそうでないにせよ、書かれている「畏怖」としての「美」というものというものはとてもとても重要だと思っています。
と言葉で書いてしまうと結局一般的には伝わらないと思っていまして、でも、建築や都市における陰(陰翳礼賛の世界)の部分とういものが一番何かを伝えてくれるような気がして、陰翳のある家を意識的につくっていたりもします。
で、そんな事を考えていると、世の軽薄さが許せなくなるのですが、それも多分何か大切な事を隠蔽した結果なんでしょうね。笑。
いつもとても良い思考訓練になります。ありがとうございます。