新建築12月

  • 2012.12.12
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千葉学さんの工学院大学125周年記念総合教育棟。
プロポーザルコンペで選ばれたのですが、「大学という場はそもそも多様な人の集まり方にその本質がある。。。多様な人の集まり方の多様さが、一堂に会するような、その活動の様子が相互に見え隠れするような建築を、部屋と廊下というありふれた形式を引き受けた上で新たな関係性の中に見いだすことができないか。。。片廊下の校舎を折り曲げて、それらを背中合わせに寄り添わせるという形式は、こうした思考の末に導かれた。」
図面や写真を見る限りは上手く行っているのかなと思うし、僕が行っていた大学は、後半の工学部キャンパスなんてそれぞれの学科も孤立し、ビルの階数で縦にも孤立した講義室が積んであったので、こんな経験は確かに全くできなかったから、羨ましくもありますw。
が、そもそも千葉さんの角張って無機質な表現はどうも苦手なので仕方ありませんけど、さて長い期間愛される建築なのだろうか??とは正直思いますし、それこそが欠けているとも思います。
ところで、本誌で、東北大教授の小野田さんが震災復興と建築家の役割について「ホワイトナイトかゲリラか」というタイトルで書いていて、その図式も記されていました↓↓
ホワイトナイト=白い騎士、つまりとても友好的な信頼のできる相手、という意味で、まあもちろんこうあるべきなのはどう考えても明かなのですが、建築や都市という分野では、日本は特にこの「ゲリラ・モデル」(何故ゲリラと名付けるのか分かりませんが)になってしまっていて、なかなか変わる糸口さえ掴めずに来てしまっていると思いますが、震災が起ったからといって、それが急に変われるはずもなく、それでも被災地、被災者のために少しでも早く、良いものを実現しようとホワイトナイトが目指されるわけですが、そう簡単にはいかないものでしょうね。
読んで思ったのは、まずは,平常時からその住民と専門家と行政の信頼関係を築いておけば、いざという時にも困らないし、その上普通に出来上がってゆく施設や都市の質も上がりコストの無駄も減るのだから取組まない理由はないはずなのに、というか取組んで来ているのに何故実現できていないのか?という事を改めて考え直さなければいけないのではないか?という事です。
その問題の根本は「質」と「お金/報酬」にあって、今の公共の整備ではいくら質を高めようとしても報酬が上がるわけではなく、設計者の質が高くても、たまにコンペなどで選ばれる事はあってもそれ以上にメリットもないので、大半の設計者はアホらしいと思って大した努力もしないし、行政はそんな設計者を単なる「業者」として上から見ているし、という関係を改めない限り何も良くはならないと、分かり切った事ですよね。。
たまに書いたと思いますが、だから僕は今はつまらない公共の仕事なんかには全く興味がなく、大変だけど住宅の仕事にとても充実感を感じてしまっています。
まあ人生まだまだ長い。そのうちには!と心には秘めているつもりです。