新建築5月

  • 2014.05.08
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TNA設計の上州富岡駅。コンペで実施されたそうですが、どうにも心が惹かれない。

論壇として長い文章が付いているのですが、大震災直後に開かれたため審査委員長の隈さんから「こんな地面の上でも人々が安心して暮らせ、人々を引きつけ、人々をいやすような町は可能か」と問い、それを設計者が挑戦状と感じたそうですが、まずは自ら煉瓦が好きではないと断った上で富岡製紙工場があった事が直接ではないにせよ煉瓦が相応しく感じたそうで、それに向き合う所から始め、また元の駅やまちなみがとても一体的に感じられ、それが魅力だと感じた、というのが出発点なので、ホームと周辺を段差なく煉瓦でつなげつつ、自然と座ったりできる部分もつくったのでこうなったようです。

で、なぜ心惹かれないのだろうか?というひとつは、煉瓦というのはやっぱり「積まれたい」と思っている素材なはずなのですが、鉄骨と(隠されたブレース)に無理矢理かぶせられ、「張られて」いるように見えてしまうから、やっぱり設計者は使い慣れない素材はよっぽど深く理解して使わないと失敗するという事なんでしょう。西洋のように「積む」文化と日本はやっぱり根本的な形のつくりかたが違いますから。

そして、論壇のタイトルは「開かれた公共性」で、開業式での演奏を聞きながら「見知らぬ同士が混じり合い響き合う場にこそ開かれた新しい公共性がある」と結んでいますし、それはそうだとは思いますが、それがこのように開放的に段差無く、馴染みのある煉瓦を使ったから実現した(かどうかも別として)、と考えるのはやっぱり後付けコンセプト的な考え方でしかないように、感じました。というか、コンセプトなんてある種の言い訳だから本当に最低限にするように、コンペなどで求める方も変わってゆかないと、軽薄な建築がますます増えるんじゃないでしょうか。

昨日の右脳左脳の話にまたなってしまいますが、やっぱり右脳に響いていないのに、左脳に説明をいくらしても響かない、と言ってしまえばそれきりですが、引き合いにも出していた丹下健三が「美しいもののみ機能的である」と言ったのはそれと同じことなんだと思いますし、隈さんの建築が「人々を引きつけ、人々をいやす」ように決して感じられないのに本当にそれが大事だと思っているのかを聞いてみたいものです。

と、いつもながらに偉そう?ですが、全然まだまだですし、これからも決して大きな建築でなくても住宅で十分なので、自分も「美しいもののみ、、」と吐ける境地に少しでも近づけるように精進のみです。