人生論/トルストイ

  • 2014.06.12
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なんで買ったんだっけwでもトルストイが本当に真剣に考えていたようで、人生論というタイトルですが要は「愛」こそ人間の全てだ、という、キリスト教がそうであろう(聖書もろくに読んだ事ないのですが)事なのですが、何もキリスト教こそ正しい、という論では決して決して無くて、仏教にしてもその成り立ちにおいては同じであり(しかしキリスト教も段々歪んできてしまうのだけど)最初に目指したのは愛だ、という話です。

何故歪められてしまったかの大きな理由は「科学」であり、物理学も化学も生物学も、細かな関係性を追い求めているだけで、つまり物質とは何か?生命とは何か?については何も答えられないのだ、というのは間違いなくそうだと思うし、つまりはそんな化学がいくら今後限りなく発達しようが、人間とは何か?については余計分からなくなる事はあっても説明はしてくれないのである。

要点を僕なりの解釈で単純化してしまうと。。

動物は種を保存しようとする本能を持っているので殺し合ったり、群れを乱したり基本しないけれど、人間はそんな本能を失ってしまったから、それに代わるある種の教えがなければ全体として不幸になるだけだから、自分を捨て、全体の事を考えることことで全体が幸せになる事が結局自分の幸せでもあるのであり、自分の目先の満足は幸せでもなんでもないのだと、そしてそれが「愛」ですね。でも多分日本語の「愛」は昔は今のような意味では使われていなかったようだし今でも西欧人とは違う捉え方しか出来てないだろうからまあ「和」と言い換えればそれでもいいのかもしれない。

あと、なるほどなと思ったのは、何故私たちは生きていて苦悩しなければならないのか?
例えば肉体的な痛みは動物なら持っているだろうけれどもし手を切り落とされても痛みがなかったとすると恐らくすぐに体をボロボロにしてしまうだろうからやっぱり痛みに敏感である事が生命に必要なのと同じように、苦悩を感じさせる事で苦悩から離れた所に、つまり幸福に向かわせるのであり、痛みが必要なのと同じように苦悩は必要なのだという、なるほどなと。

そしてその苦悩をなくすには愛(個人的なものでなく無私の隣人愛)が必要で、それこそ人間が持つべき「理性」なのだと。概ねキリスト教的でしょ?
おかげで何故キリスト教が必要とされてきたのかが分かったような気がするけれど、どんな宗教も本来単なる「手段」であり「目的」は全体の幸福なんだと思いますが、得てして手段が目的化するわけで、宗教が自己目的化して、つまり堕落してしまっているんだと思いますし、トルストイもそんな風に強く思っていた様です。
と、さすが、なかかな良書でした。