リアルアノニマスデザイン

  • 2014.02.09
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先日「作家性」「非作家性」について考えながらネット見ていて、1998年のみかんぐみの「非作家性の時代に」とという文章を改めて読みたいなあと思ったらこれにも転載されたらしく、まあ読んでみようと。

プロダクト系、建築系、メディア系、の方々にアノニマスデザインの可能性なりを語ってもらう、という企画で、中心ではない?にせよ藤村龍至さんが仕切っているのだけど、まあつくるものには全く共感できないし、言論ではご活躍だとしても、どうも芯が見えないので興味は持てない。
まずだいたい、上記3分野において、もののつくられ方が全く違うから、同じアノニマスと言ったって,本質は共通するからその議論ならまだしも分かるが、違う事を整理していないので余計混乱してしまうように思う。具体的にはプロダクトは、大量生産を前提とするから、無印しかり、それがある種ファッションとなりうるしなってしまって来たけれど、建築は一品生産であり、アノニマス的なものは単に地味なものとして施主が選ばない傾向があり、それが致命的だという違いがあるように思う。
でも断片的には良い話はもちろんあって。

まず、柳宗理が伝えたかったアノニマスとは、作家が良いものを発見的に見つけるということ。
でも、民に見る眼がすっかり失われた「愚民」社会になってしまったことを危惧して、アノニマスが見直されているのではないかということ。
建築においては、最初は全景にあっても時間をかけて背景化するような、モダニズムが目指したようなアノニマス性が必要ではないかということ。
「anonymous=匿名性」から「polynimousu=多名性」つまり、関わった多くの人々が署名をするような在り方を目指すべきではないか、ということ。
作家とは、様々な分野でアイドル的なものでしかなくなっているし、でもニッチ的には生き残れるだろうということ。

と、すっかり作家なんて、という流れですが、内藤廣さんの「遠投力」という言葉が引かれていて、つまり、建築は永く残るべきもので、つくる時とずっと先では時代も価値観も変わるけれど建築は後者を見据えた「遠投」であるべきで、そこに何を見据えるかにおいて作家性というのは否定すべきではない、という内容で、そこについては同意します。が、今の世の中が求めているものも建築家側が意図しているのも、概ねできた瞬間の形だったりしますから、そこの作家性はそれこそアイドルでし
かない、という事なんだと思います。

アノニマスとカタカナにするから分かったような分からないような感じですが、僕は、吉田鉄郎の「みていやでない」という言葉に尽きると思っています。
パッと眼は惹かないけれど、誰が見ても嫌だと思わないようなもの。もちろん100年残れば100年先の人もそう思わないようなもの。各国に残る歴史のあるまちなみは皆そうだけど、現代つくられる建築は、ほとんどはそうはなれないだろうけれど、アノニマスとはそれを目指す事だと思うし建築はそうあるべきだと思っています。
藤村さんがつくるものは、「無名性」チックだけど、今見ても嫌だなと思うから出発点から間違っていると,僕は思います。