メタボリズムの未来都市展
日曜日に言って来ましたが、まずは六本木ヒルズの森美術館という会場のためか一般らしき来場も多く(余り興味なさげに早足の方なんかも)でもそれを想定してか、一般にも興味が持ち易いような構成がされていたように思いますし、全体としてはとても良い展だったと思いますし、少なくとも建築関係者は見るべしと思いました。
もちろん高度成長時代という有る意味狂った時代の動きですから、今の中国がそう見えるように、今の日本から言えば時代錯誤的見えるのは当然ですし、方法論が今に役立つとは思えないし、「被災地の復興のための多くのインスピレーションの源泉になり得る」というよりも逆に成長を前提とした都市への方法論を改め乗り越える事が今必要で、そのためにも前の時代を総括しておくという意味で本展に大きな意味があるように思いました。
さてメタボリズムとは?
「METABOLISM/1960」で「歴史の新陳代謝を、自然的に受入れるのではなく、積極的に促進させ、、、来るべき社会の姿を、具体的に提案するグループ」と宣言し、キーマンであった浅田孝は「われわれは,人間社会を原子から大星雲にいたる宇宙の生成発展する一過程と考えている」と記しています。が、「促進」や「生成発展」という言葉の中にあの時代の特殊性、敗戦後の廃墟から必死で駆け登っていた時代の特殊性を感じる事ができますし、急激に人口が増え特に東京への集中が進む中、経済力もあれば「空中都市」のような壮大なイメージも必然だったのかなとは思いましたがそれらをCGで再現したものが流されていたのを見ると、とても人間の住む所ではないなというのが正直な感想でした。
ただ、新陳代謝ーメタボリズムという方法論自体があの時代だけのものかというと決してそうではなく、建築という時間の中で様々に変わる宿命にある存在には欠かせない事だと思います。が、それは「規模」の想定の仕方というのが問題であって、喩えるなら、同じ動物でも恐竜やマンモスは死に絶え、小さなものが生き延びて来たのは規模の問題ですし、常に新陳代謝をするためにはその大きさに見合った「栄養」が必要で、それが絶えれば滅びる、建築という小さな単体ならまあ解体という程度ですが、都市レベルでそんな事が起っては大変な事になりますよね。
しかし、菊竹さんが空中ではなく「海上都市」こだわった理由が、「海には国境がないんです。世界はやがて国境をなくさなければなりません。海上都市はそれを早めることでしょう」「もし海上都市が古くなって役に立たなくなれば、海に沈めてしまえばいいのです」と。この人は本当にすごい卓見だと思いました。(いかが?)
時代というのはいつも振り子のように行き過ぎては戻るものだとは思いますが、今の時代の建築家は逆に自己満足に過ぎる、振り子のちょうど反対の所にあるような気がします。つまり諦念がベースとしてある。メタボリズムの時代は逆ですよね。そしてそんな部分がもう少しあるべきだと。
先ほども書いたように規模が大きければ良いという意味ではないので、僕自身も木造住宅(ばかりやるつもりはない!)をやりながらでもできる事があるはずなので、この気持ちを持って自分なりに考えてゆこうとは思います。
でもこの企画にも参画している大学で同じ研究室だった日埜くん。あの頃から畏怖する程の存在だったし色んな事学んだし「批評」という言葉の意味は彼から学んだようなものだけど。。今回も磯崎さんの事書いてますがちょっと抜け出てる感じがします。
逆立ちしても敵わないと思える人間がいるというのは大切な事ですね。
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「ノンマルトの使者」間違いなく子供の頃見たはずですが記憶になく、、でもなるほど面白いストーリーですね。菊竹さん持ち上げたのは何と言うか、未来の描き方ってこうあるべきなんだという感じがして、一方の空中都市は書かれているように技術論の延長で出来得るかもしれないという意味で余り「未来的」でない感じがしまして。。「歩く都市」なんかでもやっぱり根っこの所に大きなシフトを伴うという意味で、菊竹さんも「狂気」と呼ばれるんでしょうね。
でもあの時代「減築」をどこまで意識していたか分かりませんが、そのうちいつか世界的に右肩下がりの時代は間違いなく到来するという意味では「減」もメタボリズム的なんでしょうし上海に行ったからじゃないですが考えないとまずいだろと思ったりもしました。つまりスラムだらけになる。(だったら沈めた方が良いという菊竹論に真実味を感じました)
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hinoくんというより、あの方向にいらっしゃる方々はそうなのかも知れませんが、昔八束さんに感じていたような事を今彼に感じたりしています(漠然とした印象で失礼)。
有名になればなるほど言いたいことが言えなくなるのが世の常なのが寂しいところですし、茂木さんのtwitterとか確かにとても良い事を言っているんだけどあんなに分かり易く在ろうとしている方でさえ現実の生身から乖離して行ってしまっているように感じたり。
「学」や「技術」が人類をもたらすのか?というのはもうとっくに答えが出ているように思うのですが、いまだにそれを妄信しようと努めている人類というか。
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で、最後の件ですがw
あれ。。たまに僕は住宅作家ではないというような事を書いてきたような。。
今考えて理想的なのは吉村順三的な。確かに住宅を淡々と沢山つくられたけどその延長線上に大きな建築をつくっている感じ。村野藤吾さんの方が建築家としては好きですが住宅と非住宅の間には断絶があるように思いますしそういう建築家の方が大半じゃないかなと思います。
西沢立衛さんなんかもそこには断絶がないという意味では好ましく感じます。
吉村さんは好きでも,その流れのいわゆる「住宅作家」に強い違和感があるという事でしてwww