さあ横になって食べよう

  • 2012.09.20
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バーナード・ルドルフスキーの「建築家なしの建築」は有名ですが、これは最近何かで見つけましたが、とても面白かったです。
「本書の目的は、読者に何か良いことを教えることではなく、読者の批判的精神を刺激することである。。。。自国または外国の、いくつかの不可解な風習の利点や欠点について、より深く考えてみて頂きたい」
「人間の精神を破壊しながら行われている建築の時代にあって、年寄りが若者に教えるものを何も持たず、過去が現在に対する意味を失ってしまったため、私たちは途方にくれているのである。食らうことと食事すること、洗うことと入浴すること、退屈と余暇とを同一視してしまっている私たちの文化的状況は、家庭生活の内容まで堕落させている」
という前書きが大切なところを全て語っているし、各論はご興味あれが一読頂くとしても、書かれてもいますが、「過去の」日本の文化、つまり融通無碍な畳の上で、家具から束縛されることもなく、自由に食べ、寝る暮らし、そして裸の付き合いとしての浴場という文化が衛生的にもとても優れていた、ということを、西洋と比較しつつ称賛しています。「過去の」と強調しているところがミソですけれども。。
つまり、例えばフォーク、ベッドなどという道具は歴史やその時代背景や価値観の中でたまたま根付いただけで、それが本当に、食べたり寝たりするために最善のものではないのに、「狭い見聞からくる独善的な態度を改める唯一の方法は、歴史的、地理的にものをみる習慣をつけること」を欠いていたために容易に変わることがなかったけれど、今やそれ可能な時代なのだから何故改めない?ということだと思います。
建築の世界では、良く何故日本は靴を脱ぎ、家具置かずに畳に暮らすのか?といわれますが、何となくそうだなと思いつつ本書によって念を強くしたのは、生活の融通無碍さを守るためだろうなということです。
例えば椅子なんて座る場所も姿勢もかなり強制するわけですし、僕は椅子好きだから言いますが、世の中座りにくい椅子やソファーの多いこと。そんなものにお金をかけるくらいなら、やっぱり畳の暮らしの方がよっぽど良いのではと思うので、少しでも良い家具に執着しています。
建築としての融通無碍さ、というのも何度も言われて来たことですが、やっぱり人間は容易に「独善的な態度」に陥りやすいことを肝に銘じつつ、批判的(僕は批評的というべきだと思います)にありたいと思いながら設計をしているつもりです。
読み易く、でも深い内容をもつ良書です。