「わざ」から知る

  • 2015.05.13
  • BLOG

しばらく前に、菊竹さんの「か、かた、かたち」ような事をネットで調べていたら、太極拳と関連させて、つまり誰でも模倣できる「形」を、繰り返す事で、いつしか深い意味をともなった「型」になる、という書き方がされていて、そこで参照されていたのが本書でした。


その時思ったのは、野球の「素振り」。どうやら大リーガーはしないらしく、球打たなきゃ意味ないじゃん、と考えるらしく、でも剣術で素振りを繰り返して来た日本人には素振りはやっぱり意味がある事なんだと思いますが、それが世界の王を生んだとも言えますし、相撲でも柔道でも、茶道でも、まあ基本構造は「形」を無批判に繰り返す事を求められ、いつしか自分の血肉となった「型」となるという意味で日本文化のベースだと言っても良いでしょう。本書でさらに西岡棟梁がいかに弟子に伝えたか?が書かれてましたが、要するに何も言わない。鉋屑を渡して「こうやれ」でおしまい。それが意味するのは教えたくない訳でも何でもなく、教えられるものじゃない、身体で覚えるしかない、という事ですよね。
また、原ひろ子さんという方からの引用だそうですが興味深い部分を
「ヘヤーインディアンの文化には『教えてあげる』、『教えてもらう』『だれだれから習う』『だれだれから教わる』というような概念の体系がなく、各個人の主観からすれば『自分で観察し、やってみて、自分で修正する』ことによって『○○をおぼえる』のです」と。
ここで僕の好きな動物の喩えですが、渡り鳥の群れや、すごい泳ぎ方をするイルカとか、彼らは数年以上生きるので、先輩格の姿をみておぼえ、と、その連鎖をする事によってあの高度な行動ができていると僕は思うのですが、それと変わらないじゃん、ということですし、人間も近代以前くらいまではそうやって色んな事を身につけて来たんじゃないかと思います。
上記の引用に戻りますが、近代以降は、教えるべき学問、という体系があり、それを教える教師というものがあり、という感じで頭と心が引き裂かれてしまったけれど、本書の「わざ」というのはそもそも心身が切り離せない一体のものだからこそ到達できる深み、というのは頭と心が引き裂かれた私たちには決して到達も、もしかして理解さえもできないのかもしれません。
でも、それって運動とか芸術活動とかだけの世界じゃないの?という突っ込みには、みんなで音読をしたり、暗唱をしたりという事が、きっと知識を血肉化する方法だったのでは?と返しましょう。
この歳になってやっと水泳が楽しくなって泳ぐたびに上達したな〜って嬉しがったり、下手なギター弾いたり、波乗りしたりw。。最近やっとそんな精神的な余裕ができたからか、地道に継続する事で得られる歓び、みたいなのをやっと実感できる歳になったから余計こんな事を思うようになったのかもしれません。が、やっぱりすごく大切だと思いますよ。