ja 建築-時代-言説

  • 2016.04.16
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jaの60周年特集。篠原さんや安藤さんたちが若い頃の、今ではなかなか読めない文章たちが集められていますが、それぞれが特別だったわけではないですが、並列されているのでその違いから考えさせられる事は大きかったです。

まず僕も良く触れる篠原さんから。「恐ろしいほどの力を持って成長していく技術社会の今日の時点で、この小さな空間、住宅のなかに何を表明する事によって、そのなかに生きる人間の心を支えることができるだろうかという、戦闘的な問題提起としての永遠性であったのである。」と日本の伝統様式に依拠してきた前半の創作態度をまとめられていますが、篠原さんの本等はそれなりに読んで来ましたがこの表現は初めて?かな、でも僕も結果同じことを思って今の設計のスタイルが出来ているところはあります。でもこれは僕が生まれた頃の文章。その後さらに社会は人間の心を疎外しているように思うのでそのテーマは更に重い、とも言えます。また「合理性の枠からはみだしている人間の心の部分に最大の関心をもっていた」その「非合理なるものの世界に私の空間の主題を見つけてきた」と。。。やっぱり僕はその路線にいると思います。

また篠原さんの弟子でもある坂本一成さんの文章もありしたが、僕はどうも坂本さんのつくるものに共感できないのですが、、 人間の弱さとうか、情緒性を消去できるような「ドライな空間」を追い、「住宅が建築であるぎりぎりの線まで追いつめられるかもしれないほど即物化」させるけど、そこに残ったリアリティこそが「確かな建築としての住宅」であると。。そんな態度は青木淳さんもそうかなと思いますが、「原風景」的な、土管の転がった公園、みたいな公共的な場所には相応しいけど住宅においては僕は篠原さんの上記の立場です。

あと、磯崎さんの文も興味深かった。CONSTRUCTION SITE は通常単に工事現場を意味するけれど、工事を「土地神との諍い」「構築する意志の表示」ととらえ、「構築する意志が土地神とひき起す諍いにこそ建築家としての作業の領域とその意味を認めようとしている」と、そしてその諍いの結果が建築物である、と。そんな意味では最近の建築は余り土地と諍ってないように感じるしだから軽く感じるような気もします。

そして最後に敢えて隈さん。「僕の建築の目標はひとつである。すなわち関係性の呈示である。そして呈示される関係が発見的であるならば、それは必然的に挑発的にならざるを得ない。そして関係を呈示しない建築、あるいは現状の関係性に安住する建築は、建築と呼ばれるべきではなく、民芸品と呼ばれるべき」と。。まあ後段の部分は同意しますが、それが唯一の目標だ、と言ってしまう から隈建築は軽薄にならざるを得ないのではないか、というかそれで良いと思われているからやっぱり僕は全くその路線にはいません。

経済(お金の動き)こそ最重要な今の世の中、まあ軽薄じゃないと強くなれないなら、まあ強くなんてならなくて良いや。なんて。