隠された十字架 法隆寺論 梅原猛
やっぱり梅原さんにはとても共感するところが多いので今後も読み続けますが、これは法隆寺が聖徳太子の怨霊を鎮めるために作られた、という論を立てる書で建築をやる自分には特に興味深かったです。
やっぱり梅原さんにはとても共感するところが多いので今後も読み続けますが、これは法隆寺が聖徳太子の怨霊を鎮めるために作られた、という論を立てる書で建築をやる自分には特に興味深かったです。
このシリーズ、少し久々ですがやっぱり好きなようで楽しかったです。
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間もなく選挙ですね。
久々の長期政権になりそうだからこそ、今回の結果は今後に大きな影響を与えそうですから真面目に考えないといけないはずですが、世の中は逆に自民党でいいじゃん、という空気ですよね。
まあ野党が小粒でバラバラな事を言っているから仕方ないでしょうけど、改めて原発について考えてみました。
今までは正直、きちんと安全性の評価や今後の体制ができるのであれば早く再稼働させた方が日本の経済の(それは私たちの今後の負担につながる)ためになると思っていましたが、ふっと、運転免許って、違反や殺人などしてしまった時に、かなり厳格に取り消されたりしばらく取れなかったりさせられるし、確かに凶器になりかねない自動車を運転する責任という意味で妥当だ、とするならば、今回の原発事故も同じことで、「今後絶対に気をつけますから!」と誓約したところ免許が戻って来ないのと同じく、やはり少なくともいくら経済がダメになろうが今まで恩恵を受けて来た、そして間接的に原発を進めさせて来た国民全てが責任をとって免許取消を受入れなければならないんじゃないかと思いました。
それに、その後の安全性の評価やらを見ていても、どう見ても形式上でしかないように見えますが、それはやっぱり、政治が声の大きな存在(経済界や産業界など)のご機嫌取りをせざるを得ない、次ぎの選挙に勝てれば良い、という体質だからのように思えますし、その体質は基本的に自民党がつくってきたものでしょうし、アベノミクスはうまく行っているように見えますが、将来の負担がいくら残ろうが、今景気を良くする事が自民党のためになるという意味ではやはりその体質の延長線上でしかありません。
どうせ自民党は圧勝するでしょう、だからこそ、少しでも圧勝させないようにしないと、その体質が強化される一方でしょうし、やっぱり大した反省もなく原発は再稼働してゆくのでしょうね。
政治家が反省しなくて良かったのは、失敗を埋め合わせられる体力の有る時代で、これからはやっぱり反省もきちんとして、少しでも老体(日本のこと)に無駄なダメージのない政治を行ってもらわないと本当にマズいと思います。
また別冊日経サイエンスですw
とても好きな内容だったけど何故か読み進まず、、かなり専門的な内容も多かったのと、それぞれに考えさせる事が多くて、少し読んでは考え、寝てしまいwと。。
内容は盛りだくさんなので触れてられませんが、ご存知の通りDNAには恐ろしい量の情報が詰まっていてその違いによって種の違いがあり、また常にそのDNAをコピーしなければならない中で(私たちもタイプミスをするように)変異が起こり、新しい種が生まれてくるのだけど、その変異は本来ランダムで逆に環境に適さないものも生まれるけど、環境に適した変異体の方が当然生き残るというだけではなく遺伝子レベルでも生まれやすい?ような事事が書いてありました。全くランダムな変異の結果にしてはかくも多様かつ美しい地球は出来なかったのでは?それこそ神の仕業に近いと考えていた僕には合点の行く所でした。
しかし僕らは元々魚だったわけで、大陸が移動する過程で浅瀬に棲む魚が、水中の酸素が少なかったり地上に昆虫が居たりした中でまずは空気中の酸素を吸う為にヒレが足に代わり、少しずつ陸上生活を始めた、という下りは魚好きの僕にはたまりませんでしたw。
でもこうやって生命というものを知る事で益々確信することは、簡単に言うと輪廻転生的な事です。
単細胞生物は限りなく分裂を続けているだけで、「死」などなく、多細胞生物となって始めて「死」や人間になって始めて「個」なんて概念を生み出したわけですが、僕らの体だって無数の細胞が常に死んで生まれているわけですが、それを気に留めないのと同様に、もっと世界的に、単に「人類」と考えてみれば、常に個人が死んで生まれるのは当然な訳で、その視点から見れば、僕らは単なる歯車としての「個」に過ぎない、と考える事ができるわけだし、東洋的な考え方はそもそもそうだったのじゃないかと(大して調べた訳じゃないです)信じています。
そう考えれば、死も恐く無いし、目先の事で悩んだり苦しんだりも、余りしなくなるんじゃないかなと。
だからと言って、没個性なつまらない人生、という訳じゃなくて、内面に向かい合う事がそれが実はとても豊かな事なのじゃないかと。そう思ってます。
僕は子どもの頃から特に魚や小動物が好きで、ずっと飼って、随分殺してしまってきましたが、何となくそれから学んだ事が今の思考に繋がっているような気がしています。
やっぱりどうもこの別冊シリーズが好きなようです。
まとめから書いてしまうと、当然ですが人間も元は自然の弱肉強食の世界に曝されていて、生き残るための本能的な反射があって、それが今の人間の知覚とか思考の根底をつくっているのかな、という事です。
ライバルがいると燃えたり、他人の失敗を喜ぶのは目の前の餌を取らなければいけないという欲求から説明できそうだし、うつ病が現代増えているのは手を動かしたり労働や苦労を厭わないように脳が出来ていて現代便利すぎて苦労をしないためにうつ病などになってしまうとか。
あとオキシトシンというホルモンが分泌することで信頼の感覚が生まれるそうなのですが、信頼の高さが経済的豊かさと相関関係にあるようで、もちろん貨幣や社会というのは信頼が全てというかお互いルールを守ることによって成り立っているので当然なのでしょうけれど、それも興味深かったです。
最後に「子供は象徴をどう理解するのか」というのが一番興味があったのですがもう少し深い内容だったらなあと。。絵や写真のリンゴとか椅子とかそれがそのものではない象徴であるということを学ぶには時間がかかる、とざっくりそこまでしか書いていなかったのですが、言葉というものも同じですれど、僕たちは何かを伝えるためにはそのものを手にして相手の目の前に振り回さなくてもコミュニケーションできるというのが、実はとても不思議な状況だという事は、まずもう少し認識してみるべきでしょう。
ギリシア哲学的にいくら上からの視線で到達できなかった事も、精神病患者や、未開文明に接する事で見えて来た、という事が象徴的だと思いますが、やっぱり大切な事というのは人間の本性というか無意識のドロドロとした中にしか見つけられないという事なんだと改めて思います。
え?何言っているか良く分らないですか?
それは意識の延長に真実があるという教育をされてしまった事から逃れられていないからですよ^^
しばらく前の本ですが。。。
「世間」というと外からの視線というか世間体という言葉の通り、私たちが外から求められるものですが、ここでは、「ぼくの答え」というか「内から外へのまなざし」という意味で、「よのなかのルール」を見つめ直すために何人かでいくつかのテーマを取り上げています。
宮台真司さんのストレートな物言いが好きでそれもあって読んだようなものだけど「なせ人を殺してはいけないのか」は面白かったです。
人間も殺戮を繰り返して来たし、動物も殺すまではゆかなくても凶暴になるのは、「仲間を殺すな」という単純な本能のようなものがあり、だから侵略されたり戦争時には平気で殺す事ができて、それはやっぱり仲間でないものが侵入して来た時なのですが、その「仲間」という範囲がある地域や国、という範囲で感じられていた時代が終わってしまい、とても身近な仲間(友人とか)でない限りは仲間なんかじゃなく犬や電信柱と一緒、と感じられる時代になってしまったから無差別殺人のようなものが起こる時代になったのではないか、そして「何故人を殺してはいけないのか」と敢えて問わなければいけない時代になってしまったのではないか、と。
それでも、特殊な精神状況だったり訓練を受けない限り,戦場でいきなり殺したりできないだろう理由は「自尊心」があるからであって、それは本来親や大人が「承認」という形で子どもたちに与えてきなものだけど、戦後の共同体の空洞化や大量生産的な教育の中で、「自立的尊厳」を抱けなくなってしまったしそんな大人が子どもに接する事で「バカを感染す」連鎖を起こしてしまっていると。
日本の子ども番組(最新は良く知らないですが。)では「みんな仲良し」とやっていますが、先進国は完全にやめているそうです。つまり仲良くできない相手とどう付き合うかを何も教えないことによって逆に人殺しを奨励してしまうという。
つまりは個々が自立し、自ら判断するという環境をつくってゆかなければならないのですが、今の親世代が既に「バカ」だから事は単純ではないわけですが。。
と宮台さんほど過激でないにせよ、他のテーマもまあまあ面白かったです。
ついでに姜尚中さんとの対談本を読んだのですがいやいやこちらは遠慮なく難しい内容でした。
が、その中で引用していた「ミドルマン」つまり「メディアによる世論形成を正しく行なうには、エキスパートと大衆では駄目で、そのあいだを媒介する人間が必要」という概念ですが、お二人ともどこかでそれを自任されているようですし、何も分かっていないのにそれらしい事を分かったように語る連中が多いのを嘆いていたりしますが、我々側にも、そのミドルマンの真価を見極める程度の能力は求められているという事だと思います。
以前からたまに言ったり書いたりしてますが、プロっていうのは本来そんなミドルマンであるべきだと思っていますし、僕であれば建築の世界でそうありたいと思っています。