<問い>の問答

  • 2014.04.25
  • BLOG

僕にはすごく面白い本でした。本質的であり、その本質こそが刺激的であるというような意味で。

2人とも禅寺の僧だけど、旧態然とした世界からすれば破天荒なんだろうし余計な事言うなという2人なんでしょうね。裏を返すと、というかそんな言葉もありましたが、今のお寺の世界は形式的であって本当の世界を見ようとしていないし、オウムや酒鬼薔薇事件でも和尚はほぼ口を閉ざしていたらしい所も批判されてますが、お二人は自分なりに考え、結構本も書いているようです。玄侑さんは芥川賞も取って有名ですが、南さんのとてもストイックに深めてゆく感じが好きなのでまた読んでみようと思います。

当然だけど改めて考えてみると、お寺には「死」とそれに伴う苦しみなどが日々集まる訳で、特に南さんは今恐山にいるそうで、本当に苦しい方が最後に来るような場所だから来る方も心の奥底から言葉を発して来るし、僧はそれに答えなければいけないけど、普通は誰々の高僧にこんな言葉があります、とか言って取繕うけれど、「自分の腹に落ちたことしか言っちゃいけない」と。本当にそう思うけれどそのためには考え続け考え抜かなければならないし、でも考え抜いた所で仏教には原理なんてなくて、「十一面観音とか千手観音、、あんなもの西洋的な見方をしたら、はっきりいって化け物ですよ。。。しかしあれを肯定するというか拝んじゃう文化的土壌の中に我々は暮らしているわけです。そういう変幻と自在さの中に人間を見ている」なんて所面白い見方ですよね。

紹介したい所は多々あるのだけどきりがないから、人間をどのような存在と見ているかについて。
「誰も生まれたくて生まれてきたわけではない。あれが産声という『叫び』ともに始まるというのは。。出産というものに哲学的な意味があると思います。ああいう形で放り出される、ああいう『未熟な』というよりも『まったく無力で無意味な』状態で放り出されるーーーあのようにして実存が開かれてゆくことには、何か根源的な意味があると思う」と。全く同感。

「<生きる>ということのもっとも大きな力は『アンバランス』さだと思うのです。つまり、根本的にアンバランスだから動いていくのであり、それが<生きる>ことなのです。バランスが取れたら止まるに違いありません。」でも、私たちは無理矢理バランスを取ろうとしてしまっているけど、生とはつまりアンバランスなものだという事を正面から受入れる事で、生が始まるというか。

あと、先日も書きましたが、中国から入った仏教(特に禅は)日本で随分変質し(またアメリカに入るのだけど)た理由が分かるような事として「日本語というのは、関係性を掴むことにはきわめて繊細ですが、それが何であるかを言い切る言語にはなっていません。つまり、、、断定するやり方には馴染まないのではないか」そして「日本に形而上学が全く生まれなかったのは、日本にはそれが必要なかったからではないかと思う」と。だから人の目を気にして「和」が重んじられるんですね。

西洋は、散々理性的にものごとを考えてきて、文明という側面では進んだのでしょうけれど、人間の存在とは?という面では一神教で蓋をしてきたのではないかと思うのですが、東洋や特に日本や、恐らくもっと原始民族なんかも同様に、理性が頭に血を巡らせることと喩えるなら、東洋的にいうと「丹田」というか内蔵に血を巡らせて考えて来たんじゃないかと。少し意味不明ですね。

ちょっと「気功」について調べていたら、原子動物は消化器官だけで出来ていてあとから様々なパーツがくっついて来たのであり、やっぱり一番重要なのは「腸」あたりであってその辺が丹田なのだと。つまり、生物としてもっとも原初的な部分だから、最後に獲得した頭脳ではなく、腸から何かを感じる、それが気功だ、みたいなことが書いてあって妙に納得したのでした。

あ、アンタやっぱりそっち行っちゃうんだーと苦笑されてる方もいらっしゃるでしょうけど、単に人間というものを深く考えたいと思う中で、この(特に)南さんはすごいなと思いました。