骨董、仏像、審美眼

  • 2018.04.20
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今どきこういうのは怪しい趣味に見えるのかも知れないけど、僕は趣味としてでなく、より良い建築つくるための仕事の延長として考えています。

また、ほとんどの皆さんが、古寺やそこにある仏像を好みますが、家にこういうのを置こうとは思わないのは何故だろう?

僕は日本人として、無意識的に仏教に帰依しているのを自覚してますが、信仰のためにこれを求めたのではなく、美しいモノ。言い方変えると「オーラ」のあるモノを身近に置くことは、料理やお酒のプロが美味しいものを日常的に口にするように心掛けられているのと同じだと思っていて、でも現代作られるものにそんなオーラは全く感じず、結果として、古いものでも、仏でなくとも構わないのにここに行き着いてしまった、というだけのことなのです。

先日、東京のギャラリーで中国の5世紀ごろの石仏を見た時、心がギュっと惹かれてしまいましたが、交渉次第では売るものらしく、一体あれは何千万なのか?という気がするけど、そんな資金はないので、これらもお小遣い(など僕にはないが)で手が届く範囲で、自分が美しいとオーラを感じられるものを、少しずつ増やしています。(これ以外にも焼き物系がそれなりにあり、失敗もそれなりにしましたがw)

手前のが崇福寺形水瓶と言う、平安時代のペットボトルのような?沢山つくられて結構出土して出回っているらしいけど、形も微妙に様々で、僕はこのなで肩な形と口が割れてしまっているのと肌あいと気に入り、これが走りだったかな?この何とも形を作ろうとする欲が全くない自然な形、というのは僕が良いと思うものの基本です。

次がインドの方から来たらしい石仏ですが、石って当然彫りにくいんだろうけど、やっぱり石の持続への意志と言うのか、やっぱり木彫にはない深みというか、あと、この無駄にリアルでない彫られ方なのに、というかだからこその表現力が、申し訳ないけれど全国各地に作家さんに沢山税金を払ってできた彫像があるけど、あんなものなんにも美しいと思わないし、眺めていたいと思えないけど、これは眺めていたい、思わせるのは何故なのか。仏教は当然、無私の世界ですが、この造形も無私なのだと思いますし、あまりリアルな仏像というのは、やっぱり生々しすぎるけど、これならこうやって置いておいても違和感ないかな?と思います。

奥のは、詳しい方に教えて欲しいのだけど、本物の仏像の一部なのか、でも多分そんな古くないように思うし、もしかして最初からこの形として彫られたのかも?とも思うけど、形はとても美しいと思うし、最初から一部だけで、こんなプロポーションの整ったものが彫れるのだろうか?という気もするのだけど、何しろこの断片だけでも伝わって来る強さとは何なのだろうと思う。一方、現代の彫刻なんて、良いと思えるものは、僕にはありませんが、仏像、というのは作品ではなく、信仰心の先に必然的に生まれて来るもので、優れた水墨画や書というのは、高僧から必然的に生まれて来るのと同じなのだと思っていますので、作家意識から生まれた彫刻なんかは足元にも及ぶわけがない、とも思います。

しばらく前に骨董の世界で有名だった方の本を読んでいたら、その方は中国のとある陶磁器を1億超でオークションで落として有名になったらしいですが、西洋絵画は今では100億超えるのもザラですが、それと比べると陶磁器は安すぎる、と書いてあって、多分それはゴッホなりの作家名があるからで、陶磁器にはないし、仏像には運慶とかあってもあれは作家とは言えないと思うので、やっぱり西洋絵画みたいな狂った金額にはならないんでしょうね。その話の延長で言えば、現代絵画などでも作家がちょっと有名になると、何だか良いのか分からない絵が随分立派な金額になって、それを買う方はその作家名に大枚をはたいているけど、そんな価値あるんだろうか?と思ってしまう。

もう一つ、こういうオーラのある(と僕が思っているだけだけど)ものは、ビニールクロスの家には馴染まない、というのは理解していただけると信じますが、僕の家も、設計させていただいている家にも、これよりもっと立派な仏像が置かれたとしても、負けない空気感を持っていて欲しいと思いながら設計をしている面がありますが、名建築かどうかは、そこに仏像を置いてみて負けないか?と言い換えても良いんじゃないかと思うので、よろしければそういう目で建築を見直して頂ければと思います。現代建築のモダンなものでも、そういうのもあれば、こりゃダメだ、というのも沢山あると思いますw

また気に入ったものがあれば、少しずつ増やしちゃうかもしれませんし、趣味で石彫をしてみたくなりましたが、中途半端に始めるものじゃありませんね〜。