道具論ー栄久庵憲司

  • 2013.12.23
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「道具」という言葉を改めて考えておきたいな、と読んでみました。
インダストリアルデザインの草分け的なGKデザインでメダボリズムグループにも入ってましたが、他の建築家たちと違い言ってる事は感覚的で余り論理的でなく、少し破綻気味かもw

「道具はもの事の論理と倫理を構造化したものである。倫理はその目的、行く手『道』である。論理は物事の存在理由を具象化、具体化した『道具』における『具』である。」とはその通りだと思いますが、彼らが「道具」という失われかけていた言葉を生き返らせたようですからそこはとても評価すべきだと思います。

「道具は人の幸せのために身を挺して尽くす。人の心を支えて、人の存在を高め、深めてくれる。道具は人に作法を教え、人を躾ける力を持っている。。」のであり、道具には命が、そして道具世界があるのだけれど、大量生産消費社会の中で、それが失われかけている事を危惧し、「道具世界にたてる五つの誓い」を掲げる。

1、健康で正しい道具を生み出して行く仕組みづくり
2、道具の病院をつくる
3、道具の高齢化社会の実現
4、生活道具の歴史博物館をもつ
5、道具の存在としての正と邪を裁く裁判所をつくる。

え??という内容と感じられるかもしれないけれど上記のように道具を生きたものとして捉えるなら決しておかしな主張ではなかろう。

あと、あの2001年宇宙の旅を引き合いに出すのだけど(久々に観てみました)猿人が動物の骨を握り、叩く,という事を覚えるところから始まりその投げた骨が宇宙船に変わるという絵は秀逸だなと思うし、実際単純な道具の延長に宇宙船もあるのだろうし、最後には宇宙船をコントロールしているコンピューターHALに感情?が芽生え、間違った目的を正そうとするというストーリーで、栄久庵さんもそれに深く共感しているようなんだけど、どうも、上で言う道具が生きているとか感情がある,という事と、コンピューターやロボットに感情や命が芽生える,という事は本質的に違う事だと思うのに、栄久庵さんはそれを混ぜているのが、僕にはどうも違和感がありました。

もちろん広義にとらえればどちらも道具なのでそう言いたいのだろうけれど、本当に道具という世界と取り戻したいなら,狭義の道具、つまりもっとプリミティブで感覚的に人間の手の延長として使える範囲のもので、使い込む程に良くなったりして、モノとしても美しいもの、として考えたいし、栄久庵さんも書いていたけれど、宇宙船なんて美しいなんて考えたらつくれないし即物的になるしかないから、やっぱり機械の延長なんじゃないかと思う。そしてそう言う意味では、建築や住宅は、決して「機械」ではなく「道具」かと。

追記)僕なりの定義としては使う程に質的に向上するのが道具。刃物などつまり職人業的な。PCだってゲームだって向上するだろ?ってのは違って速度が早くなるだけで数人がかりでやれば同じことができるならそれはやっぱり機械と呼ぶべきだから、宇宙船は機械。それをつくる過程では道具や職人が必要かもしれないけれど。

でも,その辺りを自分なりに整理して読めば、道具というものの大切さを感じさせてくれる書だとは思います。