豆腐 めし 白井晟一

  • 2011.07.13
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先日のブログで「軽く書けない」と匙を投げてしまいましたが。。
1956年に書かれたふたつの有名なエッセイ?難解ではありますが、短いですし、皆さんにもちょっと知って頂きたい大切な内容なので。
「豆腐の平凡な形と色」に「美を感じる」とすると
「体系をもって直接生活にとけている『用』の美同一の如きものと考える他ない」
「ながいあいだ日本人の生活の中で栄達者にも失意者にも普遍な『用』としての『常』の安価で成熟し完成した」
「これ以外のものをゆるさない形と、色と物理的性質に到達し、いや、人間のために満足な『用』となって奉仕するものを完全というならば・・・豆腐において・・・『完全なるもの』を見ることができる」
「そういう完全な単純を生んだものは、生活の意志をつつむ祈りであった」
「美も、機能も、或は論理も、『用』に完全に埋没せられて始めて価値を生ずる」
つづいて「めし」です。
「この世から諸々の雑音と共に装飾が消え『美をつくる術』などと思い上がった企てをしなくなったらどんなにすがすがしいか」
「美は人間が作るものとは云い難い。求めて得られるものではない。人間にはただ表徴と抽象の能力が与えられているだけである」
「『用』から『美』を独立させたときから自然力としての人間は誤られ始める」
「米稲の収穫に至る巧みに堪え苦しんだ労働、やがて『神』に還元する生産を、祈りにおいて体験した時ー我々の祖先が『めし』の『用』を精神の次元へ高め、これを生と聖の契合に迄昇華させた時に『用』は始めて極限の意味と価値に到達した」
「日本の『家』は母の愛を中心に大きな自然の意志をもって個人を止揚する毅然たる秩序に支えられ手いる」
「(家族を)分裂させず,内部から繋ぎ堪えるものは・・・常に『めし』の『用』を極限に高めた『母』の犠牲であった」
50年以上前の文章ですが、この感性ってどこかに少しでも残ってませんか?
素朴な茶碗やお皿に白米や豆腐(もちろん樹脂の容器にはいって角がないヤツなんかでなく)があったら、心を少し静かにしてみたら、何か感じる感性って日本人にはあるように思います。
今そこで美しく咲いている花だって、美しくなろうと存在しているわけでなく、種として生き延びるために、気が遠くなるくらいの成長の繰り返しをする中で、結果として花の生育になんら関係ない人間に精神的な感動を与えていて、それが美であると、それと同じような事だなと思います。
そしてより大切なのは、それを導いたのは、「無私」の豆腐職であり、母であって、苦しい事もある日々を無私に繰り返すために「祈り」が必要だったという事だと思います。
でも「無私」も「祈り」も風前の灯と云える今、ただまだかすかな灯が見える今、黙ってそれが消えゆくのを見ていてよいのかなと思います。