読書について

  • 2011.06.15
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しばらく前から僕の中では古典を当面きちんと読む、という目標になっていて、でショウペンハウエルです。
僕以降の世代には少し馴染みが薄いような、でも少し上の世代ではデカンショと、哲学者3人の1人として結構読まれた?ようです。
とても面白かった!
まず「思索」では自ら思索し思想を持つ事こそ価値があり、読書を続けることで、他人の思想が我々の頭脳に流れ込んで来て、有害でさえある、と。自ら思索をする者には、という限定があるので誤解なく。
「著作と文体」では、後から書かれたものは後から書かれたものを改善し進歩していると信じやすいことと、それが大きな間違いであることや、すぐれた文体は主張すべきものを所有しそれが純粋明瞭に表現されたものであるのに主張を持たぬ愚かな著者たちはまわりくどい文章によって高邁さを演出する、と。また自らのドイツ語がもつ芸術性が新聞記者などに破壊されていることを随分長く嘆いていますが、まあ微妙なニュアンスは他国人には分からないにせよ、程度の差こそあれ日本語にも同じことが進んでいることに危機を感じさせるものですね。
ちょっとひっかかった文章を引用。
「しかし怒りを欠く者は知性を欠く。知性は必ずある種の『鋭さ』を生む。鋭き感覚は生活においても、芸術、文学においても、ひそかな非難と侮蔑を呼び起こすいくたの事柄に日々に必ず出会う。この感情こそ、愚かな模倣を制止するものである」
余り聞き慣れぬ論調ですが、とても納得しましたがどうでしょう??
最後に「読書について」。お金目当ての文筆家が、「時代遅れにならない読書術に励む」ように上流階級の手綱を取ることに成功し、史上希有の作品は名前だけ知っていれば良いという風になってしまったと。そしてそんな悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。と
まあ裏を返すと、自ら思索するつもりはないから、そんな名作のような立派な思索をした書物ではなく、川のように流れてゆき、日々の会話ネタに困らないような駄文を読んでいた方が楽なのよと。
それが実情のように思いますが、そんなんでよいのやらどうやら。
で、表現の世界全般、もちろん建築も同じ構造だなと思います。違う??