観光客の哲学 東浩紀

  • 2017.08.14
  • BLOG

東さん。同い年らしい。新しい思想(哲学)という括り?が何だか軽薄に感じられ読んだことなかったのですが、とある書評で読みたくなりました。面白かったです。

帯にもあるように、今までの著作の集大成をしつつも、「観光客の哲学」という大風呂敷を広げますが、書かれているように、まだ試論的であり、今後より深めてゆきたいそう。

でも、記されてもいますが、「観光」と「哲学」ってどうも馴染まないし気持ち悪く感じるけど、それは、哲学は「まじめ」であり観光は「ふまじめ」と言えるからだけど、それを言えば「文学」も特に今の日本では「ふまじめ」に括られているように思うし、でも学問なども含めた「まじめ」だけで世界は良くならない、という実感はあるし、そこには「ふまじめ」が必要では?と言われれば少しは納得が行くかな?また東さんの以前の書「弱いつながり」で「人間が豊かに生きて行くためには、特定の共同体にのみ属する『村人』でもなく、どの共同体にも属さない『旅人』でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、時折別の共同体も訪れる『観光客』的なあり方が大切」と主張されたそうだが、それも納得できる。

そしてそんな「観光客」は今の時代、つまり国家のように揺るぎなく固有と思われて来たものが、ネット社会/グローバル化のようにどこまでも繋がってしまうような環境の出現によって揺るぎ、その両者がただ対立するものとして足を引っ張り合っているような状況下、だからこそ必要で、「郵便的」(あるものをある場所にきちんと届けるシステムを指すのではなく、むしろ誤配すなわち配達の失敗や予期しないコミニュケーションの可能性を多く含む状態)であることがその本質である。と。だから、マニュアル的な、ツアー旅行のようなものが「観光」のイメージとなりかけてしまっているとすれば、それとは切り離してイメージをしないといけません。そう言えば、僕は最近旅行(特にヨーロッパなど文化的な)には興味を失いかけていたのは、そんな意味で形式化したツアーに時間とお金をかけることがアホらしく感じ、行くなら自然豊かな島にでも行きたいと思っていました。余談。。

具体的にどういう事が「観光客」的なのか、という提示は、本人がされているチェルノブイリツアー(行ってみると恐ろしい場所ではなく普通の場所だったりするそう)や、反発を食ってしまったそうだけど「福島第一原発観光地化計画」というほんも出されたそうで、つまり「フクシマ」が放射線汚染の大きな代名詞として世界に広がってしまっている現状では、むしろきちんと見て知ってもらい、また人が来てくれることも地域のためになる、という主旨のようで、それは否定できないと思うけれど、被災者がまだたくさん困っているのに「観光」とは何事だ!という声に潰されてしまった、という日本らしいお話だが、行って見なければ何もわからない、感じないけど、行ってみることで思わぬことが感じられ、起こり、良い方向に向かいうる、ということなのだと思います。

それ以上は、きっと今後の本になって整理されるのだろうから、まだ雲をつかむような感じだけど、さすがに活躍されているだけあって、それぞれの内容も面白かったし、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟たちの分析と、それを乗り越えるために観光客的であることが必要で、彼が死んでいなければ書かれたはずの続編はそれがテーマになったであろう、なんてのも、面白かった。つまり、権威的なもの、権威に反して虐げられるもの、無関心になってしまうもの、確かに今の僕たちもそのどれかに分類されるだろうけど、それを乗り越えるのが観光客だと。グローバル化の時代、昔のような進歩に対する考え方は無効化されているけど、一方でグローバル化は止められないし、トランプが象徴的だけど、それで世界が分断されかけて危機的とも言える。それを乗り越える思想、というのがなかなかなかったように思うけど、東さんはそれを目指している。

本業の建築の話に引きつけてみて、僕は古典的?な古い考え方で建築は作られるべきだと信じ、でも世の中、そんなグローバルな完成で目新しいものが沢山できてゆく。そこにもある種の分断があって、僕は諦めて、僕は僕なりの道を歩めばと思って来たけど、もしかして、というか、その二元論から逃れる「郵便的」さで建築に向かえば、僕も変わるし、彼らも変わるのかな、と思いました。