正義
日々私たち個人も国家レベルでも多くの判断を繰り返し日常が進む訳ですが、その判断が本当に正しかったのかどうか?という素朴な疑問を膨らませれば必然的にこういった「正義」の問いに近づくと思うので、まあたまにはこんな本でも読んで頭の整理をするのは良い事です。
そして、立場として、最大幸福原理の功利主義、自由至上主義のリバタリアニズム、そして美徳を涵養し共通善について判断するような正義(著者はこれ)と大きく3つを論じている。
極端に言うと、個人と言えども働き蜂と同じように全体の一部でしかなく全体が保たれれば個体の自由や幸せ、生死に意味などないと考えるか、もしくは、個人の自由であれば他人や全体にどんな迷惑や殺人さえ犯しても構わない、という両極の間に様々な立場があり得えるわけで、いくら議論しようが正解はどこにも無いのだけれど、やはり社会という全体をより良く継続させるためには、その両極のうちのどこに軸足を置くか、またその理由について、構成員が議論し共有した方が良いとは思う。
筆者は功利や自由という言葉は大切な部分を切り落としていると見ていて、それは美徳や共通善だと。
でも冷静に読むと、やはりこれはとても特殊なアメリカという国(人種や国の成り立ちなどなど)でのある種のディベートの結果であって、恐らくそもそも島国の日本にはほぼ関係のなかった事のようにも思う。つまり、他民族、他国に対して何かを押し付けたり押し付けられたりという事が無かった中で存続して来た事によって、かなり自然に「全体」の方に軸足が置かれて、素直にOne for All状態になっていて、それがブルーノタウトらが見た美しい日本だったのかなと。
でも今はそんな事言ってられず、だから日本は外交にてんで弱い訳でし、そんなのいいじゃん!とか言わないのだったら、もう少し議論するクセをつけた方が良いかと。
これを読んでいる間に大震災が来て、様々な情報や言葉が飛び交ったけれど、正しい判断を邪魔するようなものが余りにも多く、感情的に流されていたり、道徳を振りかざしているだけだったり、ちょっと悲しくなったりもしました。
で,僕はかなり個人より全体、One for Allの立場です。って日々は自由に生きていますが。。
だから、早く被災地も含め、日本全体が笑顔でいられる日が来て欲しいと切に願います。
でもだからこそ、感情的になりすぎず、道徳を振りかざさず、今自分の目先に有る事を淡々とすべきなのだと思っています。働き蜂のように。
ただ、建築の業界も資材が流通しなくなったり、復興の為に大量に必要になってゆく中で、進めたくても進みにくい状況が出て来そうです。でも、我々も職人たちも遊んでいたらより悪い方向になるだけなので、何か頭を使って、動かして行く努力は今後したり、情報を共有したりしたいと思います。
浜松祭りも中止だって。
何でも控える事が良い事なのか?控える事で何かできるから控えるのか??じゃなければ控えなくて良いと思うけれど。そんな議論はきちんとなされたのだろうか??
こんなところにも日本人の論理的思考能力の低さが現れているように思いますが、賢明な市長様なら何か考えているのだろう。
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1年半に1回くらいコメントする浜松から神戸に引っ越ししたまつもとです。今もよく長谷さんの建てた家の写真しみじみ見てます。サンデル教授の白熱講義を見てから、ちゃんと読もうと思ってて、今読まないと、と思ってた本が出てたのでついコメントしてしまいました。地震以降、表面的な批判ばかり飛び交うことが本当に残念ですね。
cafe at homeもいつかうかがいたいと思いますので、ぜひ続けてください。
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コメントありがとうございます。お久しぶりです。サンデル本はゲームみたいなものなので、自分なりの戦略をもっていないと振り回されるかもしれません。笑。議論は言ってしまえばゲームみたいなものですから。
でも結構楽しめましたのでよろしければ是非。
Cafeの件、続けるつもりですがそう言って頂けると嬉しいです。それも遠路来られるような事があれば大歓迎します!
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>「対話」と「妥協点の模索」
政治などの世界でも議論のレベルでは行なわれていず、表面的な線引きが行なわれていると?それはそうかも知れませんが、ではアリストテレスも娯楽に興じていたという事でしょうか。笑
祭りという漢字の本来の意味は「葬儀」だそうで、確かに慰霊的な存在ですが、浜松祭も静岡まつりも、単なる余興だから浮かれた行いに過ぎない、というのは確かにそう言わざるを得ないのかもしれません。
神との契約を軽んじて興じている人間たちへの天罰であったと言うのであれば確かに中止すべきなのでしょうか。
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タウトの件は、今読んでいる磯崎さんの本で、彼はスポークスマンとして利用された面があるような事を読み、いやいや知らないって恐い事だと思ったりしました。
ALLについては、とりあえずは、具体的な政治に適用するレベルでなく、素朴に、もし自分1人が犠牲になれば多くを助けられるなら、という意識がもう少し(少しですよ)必要かなという感じで。ですが、確かにもっと具体的な議論をすべきかとも。
日本が果たして戦略的に「弱い」外交を続けてきたかというと、当初はそうかもですが、今そのしたたかさが無くなってしまっているように思いますよね。バカな振りして実は、みたいになれば良いかなと。
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リスクについて。確かに建築業界もまったく同じ構図だと感じていました。
耐震性についても、数千年に一度の震度は想定していないですが、もちろん確率的には起こりうる訳で、その結果倒壊しても、恐らく我々は責めを負うように思いますが、それでも倒壊しないものは作り得ても、コストや快適さをとても犠牲にするわけですよね。ここで本来2つの考え方しかなくて、想定外だから倒壊しても仕方がないと考えるか、低確率にしても人命に関わるならそんな構築物はつくるのはやめる(もっと簡易につくれば可能)か、かなと思ったりもします。これがメタレベルの視線かどうか?
今回の原発も同じで、想定を超える地震だったにせよ、確率的にはありうるリスクをゼロと見なして隠蔽してきた結果ですよね。
しかしいくら小さな確率でも大きなリスクになりうるならリスク評価をしておくべきなのかなとも思います。
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サンデルさんの本でもありましたが人命を経済的評価するというのは際どい話ですが、それも含めて今回恐ろしい経済的、精神的影響が出ているわけですから、数値評価の良し悪しはあれ、何か検証はしないと常に感情論でしか語れなくなってしまっているような。
そしてそれを個々が共有するために議論や哲学は、僕は娯楽ではないとどこか信じていたりもします。
もしくは、どうせ分り合えっこないんだから、という前提であれば、政治家も電力会社も、彼らの理論ではあれ彼らなりに頑張っているんだろうから、文句は言わずに最後まで任せる、というスタンスにするか、どちらかだと思ったりもします。