春宵十話/岡潔
先日も登場しました岡潔さん。1963年出版でベストセラーだったそうですが、読み易いですがとても重たい話です。
感じた事を自分なりにまとめます。
この世になに一つ確実で永遠のものなどなく、でも数学なども含め「確からしい」という世界を作り出してそれを頼りに生きているのが人間であり、その「確からしさ」を支えるのが「情緒/心」であって、情緒というのは個別のものなので「確からしさ」は学会が決めるものでも何でもなく、個人の情緒によって支えられるしかない。だから各自の情緒を通して感じ考えることが大切なのであり、権威的な固定化した考えなどはクソクラエなのである。
だから岡は随分独自な、驚くような持論も語るのだけど、それは我々が多数派工作されたようなものを一般論として受入れ過ぎているだけだと言えます。
しかし、子供の頃からの経験を随分記憶されていて、それが自分の情緒をつくっているという事を分かってられたようです。
そんな中の1つ個人的に引っかかったのは、岡も敬愛する漱石が朝日新聞に入社した時に「自分の小説は少なくとも諸君の家庭に悪趣味を持ち込む事だけはしない」と言った、という事を最初は平凡な事と聞き、いつしか「豪語」と感じるようになった、という話です。
「悪趣味」。。。。今の世の中にずっとどこかで感じていたものとして、僕の中で結びつきました。
その後たまたま、今更、AVATARをDVDで観て、そりゃすごく良く出来てはいるけど、人間の想像でつくられた世界というのが、本当に「悪趣味」だと感じました。自然の造形の中には全く感じられないものとして。
多分漱石の言った意味と本質的にはそう違わないと信じるのですが、確かに平凡な言葉の中に本質があるというのはすごい事ですね。
僕も、悪趣味なものだけはつくらない、と真剣に思ってはいるのですけれどもね。
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追記になりますが、多分僕が「悪趣味」だと感じるのは「何かに似せる」行為で、だからジブリアニメはきっとそうではなくて数学と同じようにある種の切り離された世界なので、当然数学に悪趣味は余り感じない?のと同じかもしれません。
切り離されているけれど完結した矛盾の無い世界が「お約束」の世界で「確からしい」と同じ事だと思いました。
でもその切り離されたアニメや数学の中で居心地よくしてしまうのはちょっと待てで、何からどのように切り離されて、どんな位置にあるのかという事を問わないといけないように思います。岡さんのように。
漱石の「悪趣味」を僕なりに解釈しすぎてしまったかもしれませんが、以前も書いたか百年の孤独だけは読みましたが、悪趣味は感じなかったですw。
漱石論を吐けはしませんが、時代や世代を超えても読まれるという事こそが、悪趣味でない必要条件として考えても良いのかな。なんて思いました。