新建築3月

  • 2018.03.02
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被災した釜石市復興プロジェクトの小中等一貫?の校舎。左はCAt、右上は乾さん。ですが、この学校に通いたいですか??

どうにも学校としても、建築としても魅力を感じられなさすぎて、文章も読む気になれず、読めば何かあるんだろうけど、何か根本的な方向を間違えてるように感じる。

まずは「津波」に対する向き合い方として、傾斜した造成地みたいなところに学校というデカい塊を無理やり高いところに押し上げた、みたいなボリュームの置き方、次は、伊東豊雄さんが切妻の木造なんか作っちゃったことと同じことで、被災地という生々しい事実や、政治的な絡みがずっしりのしかかるところに、所詮アーティスト気取りから抜け出せない建築家、という存在をなぜ無理やり関わらせたのか?地元に根ざした真面目な人たちに任せれば良かったのでは?という意味で。結果どうにも子供達が健全に育つ場所になるとは思えないものができてしまったように(あくまで写真では)思う。

耐震性も、断熱性も、あるリスクを強く主張する一部の専門家でもいれば、他の専門家はそんなリスクは無視すべきとは言いにくいし、さらに津波なんてリスクはさらにそれに輪をかけるように思うけど、結局それがコストを上げ、健全な建築のあり方、材料のあり方の脚を引っ張り、その「リスク」が全てに勝る決定要因としてそのプロジェクトを支配してしまっているように思う。

教育の場でも、ごく一部のモンスターペアレントみたいなのがいることで、本来なすべき「教育」を求めることが難しくなってしまっているのではないかと思うけど、それと構図は同じように思う。

つまり「心」の問題の評価軸が全く欠落してしまったからではないか、と思う。もちろん、他人の心の痛みを分かりなさい、なんてレベルのことが「心」の問題ではない。

FBで書いたけど、若者の読書量がさらに減っているそうだけど、それは間違いなく、彼らの環境(親や社会やスマホ)が複合的に、読書する脚を引っ張っているだけで、つまり社会自体が、読書をする人間を欲しなくなっているんじゃないかと思うし、良質な読書こそが「心」を育むとと僕は思うのだけど、極論それは、「お金」が社会を支配する度合いが益々高まっている、ということに尽きるんじゃないかと思う。

こんな長い階段を登って行かざるを得ないとして、上に大きな建築物が聳えざるを得ないなら、せめて階段の両側にできる限りの植樹をして、お寺に参拝するようにしちゃって、建築の方は、こんな有名な建築家を入れてこねくり回さずに、良質な素材でコンパクトにおおらかに作ったら良かったのに、と思いました。