新建築12月

  • 2013.12.04
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表紙は青木淳さんがやったあいちトリエンナーレでの名古屋市美術館(黒川紀章設計)の展示。「新しい様相を発掘し仮設的リノベーションを施す」コンセプトでそういった「アップデートの運動こそ本質に建築である」とも言ってますし、ヨーロッパ等では全く違う用途転用(宮殿が庁舎とか発電所が美術館とか)が結構あるけれど日本では多分法規制(と価値観?)でそれが余りなされにくい状況は確かに変えるべきだとは思う。つまりは地震のたびに耐震基準が厳しくなったりして、つまりは一昔前の建築は既に危険で使っちゃいけないと思い込まされているのがひとつの問題でしょう。
話は少し外れるけれどヨーロッパとか、自動ドアひとつとっても美しいなあと思うんだけど、あれも日本は確かに風雨が強かったりするのでメーカーが水密基準など高くせざるを得ないからゴツく、更に値段も高くなってしまっていて、つまらない既製品が席巻してしまっているんだろうと思う。
それより、坂茂さんのクライストチャーチでの紙の教会と上の画像のは京都造形大で学生たちにつくらせたスタジオなど載ってますが、基本的に災害に関するものはボランタリー アーキテクツ ネットワーク(VAN)でボランタリーでやって来られているのですが、ずっと思ってますが坂さんほど表に出ている建築家の中で異端というか全く違う立ち位置にいらっしゃる方はいないと思いますし、そういう意味で恐らく坂茂論、というのは聞かない(将来なくなられた後でも多分)のは、やはり根っこが違うんでしょう。昔坂さんが、僕はディテールは良く分らない素人みたいなものだから、こんなもの(紙管とかであっさりとつくってしまう)つくっている、みたいな事言われてましたが、もちろん当然ディテールはしっかりとあるから美しく出来ているんだけど、既存の権威的な、大多数の建築家が信じているディテールなるものに当初から違和感を感じられていたんじゃないかと思うし、それが敷衍してもののつくり方、建築や社会との関わり方も変わった結果がVANなんじゃないかと思う。
「素人的」というのは悪い意味ではなく、「地に着いた」という意味で逆にお偉い建築家さんたちは「空」から民に与えているつもりなんだと思うし、昔よりは状況は変わってきたと言っても、若い世代は変わって来たようには見えても多分結果自己満足的であるという意味では変わっていないと思う。社会に関わって開かれた建築をやっているというのはポーズというか本当は自分がやりたいものをやるための手段でしかない、というか。
伊東さんが散々やりたいことをやって来て震災後に悔い改めたような事を言い始めたのは全く理解するべきではなく、坂さんがやって来られた事こそ理解すべきじゃないかと思います。