新建築10月

  • 2017.10.02
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今号はとにかく、槙文彦さんの文「変貌する建築家の生態」の言葉の重みが圧倒的なのでそちらから触れます。

以前に書かれた「漂うモダニズム」以降、これからの時代の建築家のあり方、みたいなものにかなり具体的に、若い世代に伝えよう、との積極性を感じるし、とても有り難く感じます。

まずは、古代より、「建築家に求められる才能とは、巧妙さと言われる類の独創性ある閃きと、学識という、二つの異なる資質」だったと指摘し、近代までその「閃き」によって偉大な建築家たちが偉大な建築を残して来たのだけれど、それ以降は「商業資本主義によって、すでに建築家はイニシアティヴを取れなくなって」しまい、その商業資本主義に対応するために、無駄に大きくなった組織設計事務所の中で、「軍隊」のようにつまり上からの命令をしっかり果たせば良い、という環境で多くの建築が作られてしまっているのだけれども、そもそもどんな大きな建築でも10人にも満たない小集団で建築設計は可能であり、むしろその小集団から生まれるアイディアこそが「閃き」であると。そしてその軍隊で忘れられてしまうのは「変わらぬ人間像と変わりゆく人間像に対する深い理解と愛」「新しい共感のヒューマニズム」なのだと。そして「人間が潜在的に持っている欲望を発見し、それを建築化」することが必要だと。
僕も本当にそう感じるのだけれど、多分大きな組織設計事務所にいると、おそらくその意識は薄くならざるを得ないだろう、というのも実感としてわかる。だから、表紙のNTTファシリティーズ設計の近畿大学の施設は、上記の意味そのまま、「閃き」など全く感じられないけれど、商業資本主義的に見れば、評価される建物なのだろうと思う。
僕らは資本主義の世界に生きているのだから、それで何が悪いの?と言う方にとってはそれが真実だろうし、一人の建築家として、一人の人間のために、本当にこうあるべきだというものを作らなければいけないのではないか?と思う僕にとっては、やっぱり存在するに値しないようにしか感じられないのである。
だからいくら事務所は小さくとも、大きな仕事は来なくとも、その商業資本主義に近づかないように心がけることだけは続けて行かなければ、と思っています。